今日という日は、二度と来ない




 ―――今日という日は二度と来ない。


 悲しい色というものはどんな色か。
 きっとこんな色をしているのだろうと不知火ゲンマは沈む夕日を眺めながら思った。
 オレンジと薄闇が滲むように交じり合い、悲しいぐらい美しかった。
 今日という日は、二度と来ない。ゲンマがほんの数分も持たないその色を見つめていると、ふとあのフレーズが頭に浮かんだ。

『今日という日は二度と来ない』

 知っているか、とお猪口を手に、並足ライドウが笑う。
 酔ってほんのり頬が火照っていた。横目にそれを眺め、ゲンマはやがて俯き加減に視線を逸らし、お猪口に口をつける。色気など皆無に近い男なのに、やけに扇情的に見えて、オレの目は腐っているとゲンマは自嘲した。
「なぁ、知っているか」
 ライドウは重ねて問うた。楽しそうに問うた。
 その様子を横目にチラリと見て、ゲンマはまたすぐに視線を戻す。居酒屋のカウンターで、目の前など何も楽しいことはないのに。
「知ってるも何も、そんなの当然のことだろう」
「馬鹿、映画の名セリフだ。知らないのか」
 ゲンマが知らぬことを自分が知っていることで優越感を得たのか、ライドウはひどく楽しそうに笑みを深めた。
 しかし本当は、ゲンマは知っていた。知っていて、わざとはぐらかすように答えたのだ。
 件の映画を実際に観たわけではなかったが、観ずともその台詞は木ノ葉の里に流行っているのだから、耳に入らぬわけがない。
 身につまされるような思いがする言葉だった。『今日という日は二度と来ない』―――映画の宣伝と共に知れ渡った名セリフを初めて聞いた時、どんな思いをしたのか、それこそこの男は知らないだろう。
 ゲンマは何も言わなかった。
 ライドウもそれ以上、特に何を言うも無かった。話題を振っておきながら、ゲンマが知らなかったことで満足したのだろうか。
 酒を飲む二人の間に、静かな時が満ち、そして流れていく。


 営業時間終了ギリギリで店を出た二人は、ゆっくりとした足取りで歩いていた。
 互いに一人暮らし。住む場所も割合近いときているので、何も言わなくても同じ方角へと進んでいく。
「今夜は星が見えないなぁ」
 ライドウが夜空を見上げて零した。
 つられたように、ゲンマも夜空を見上げた。確かに雲に覆われた空は、星の光が届かない。それを認めると、ゲンマは見上げるのをやめた。ライドウはまだ夜空を見上げ続けていた。
「……―――」
 明日は雨だろ。そう言おうとして口を開き、けれどもゲンマは何も言わなかった。
 ただ、夜空を見上げるライドウを見つめていた。

「……っと。それじゃ、またな」
 ようやく訪れた分岐点で、ライドウは一旦立ち止まってゲンマにそう告げた。
「ああ」
 ゲンマは短くそう答えた。
 やがてライドウが暗闇に吸い込まれていく。それをゲンマは見送ることはせず、歩き出した。



 それはなんでもない一日の終わりだった。
 いつもの繰り返しのように行われるそれを思い出したのは、その時にライドウが出した話題である『今日という日は二度と来ない』の台詞のせいだろう。そのフレーズを先ず思い出し、そしてそれにまつわる情景を次いで思い出した。
 けれども、なんでもないはずだったのに、あの情景を頭の中に思い浮かべたゲンマは喉を熱くした。
 既に夕日は沈み、あの夜よりはまだ明るい夜空がそこに在る。
 悲しいほど美しかった景色は、ただただ孤独な夜へと色を変えていた。
 景色と同調するかのように、体温が下がっていく。
 敵から受けた傷から、止血をしたもののそれでも血は確実に減っている。右足と腹部をやられてしまった。身体は痛みよりも重みで動かすことが困難だった。水を吸ったようにひどく重い。うまく力が入らなかった。
 草原に寝転がったままの姿勢で、ゲンマは冷静に自分の身体が死へと向かっていることを悟った。
 だからだろう。
 ゲンマは自嘲を浮かべた。
 ライドウとの友人関係は心地良いものだった。少なくとも、自ら壊したくはないほどには、ゲンマにとって大切なものだったのだ。
 なんでもない日が、特別だった日に変わることを恐れた。ただ酒を飲み、くだらない会話をするだけでも、ゲンマは失いたくなかった。
 大切なものを守った。しかしその為に自分の心を押し殺してもいた。
 こうしてただ一人終わりを迎えるのならば、いっそ綺麗にぶちまけて終わらせていてもよかったのだ。
 羨望と後悔が同居するなんてことがあるのか。ゲンマは奇妙に思い、少しだけ笑った。

「―――なーに笑ってんだ、この馬鹿」

 懐かしく感じる声がした。
 ゲンマは重い瞼を気力で半分ほど開け、その声がする方へ目を向けた。
 目を見開くのに気力は要らなかった。
 ピィー、と木ノ葉の医療班を呼ぶ笛の音が響き渡った。
「………んだこりゃ」
 何故、お前が。
 しかし質問に答える声は無かった。
 重い鉛のような身体に、何かが触れる感触があった。
「止血はしてあるな。血が足りないならオレのをやる。良かったな、このオレのお陰でお前は生還できるってわけだ」
 憎々しいほどの冷めた声で、ライドウが告げた。
「……ライ、」
 ライドウ。どうしてお前が。
 お前は別働隊だったろう。既にこの場を去っていなければならなかったはずだ。
 問いたいのに唇が戦慄いて、言葉が生まれない。
「これ食え」
 その唇に、ライドウの指が何かを押し込んできた。薬丸だろう、苦い味が広がる。
「……水」
 ゲンマがそう言うと、竹筒が今度は押し付けられた。口の端を零れはするものの、幾分かは口内に入って喉が潤っていく。
「ったく、お前はもっと優しくできねェのか」
 憎まれ口を叩くことができたことを、ゲンマは心の中でホッとした。
「してるだろ」
「してねェよ。こっちは死に掛けてるってのに。大体お前、」
 血液型が違うだろ、と続けようとした言葉が途切れた。
 頬に、水滴が落ちてきたからだ。
 一粒、ふた粒。
 それは先ほどの水とは違って、温かかった。
 だからそれが何であるか、ゲンマにはわかった。
「……死ぬ、とか言うな………、お前は、オレが死なせねェ、……いいな」
 さっきまでの冷たい声音が揺れ、滲んでいく。
 ゲンマの胸が締め付けられ、喉が熱く痛んだ。
 ゆっくりと瞼を閉じたゲンマは、重い身体を動かして、ライドウの身体に触れた。どこの部分かはよくわからなかったが、うまく力の入らない指でそれでも必死に掴む。多分、腕だ。上へと滑らせ、今度は肩の辺りを掴む。ライドウはじっと動かなかった。
「ライドウ」
 ゲンマは手を肩から頬の辺りへと移動させた。
 ああ、頬だ。わかる。そして、濡れている。
「……好きだ」
 何も考えなかった。ただ自然と口をついて出た言葉だ。
 それはひどく単純で幼稚な言葉だった。そしてゲンマの本心だった。
 ライドウが息を呑み、ゆっくりと嚥下する動きが指先から伝わった。新たな雫が指を濡らしていく。
 そして、頬の筋肉が動き、何かを言おうとしているのも伝わってきた。

「―――…………オレもだ、馬鹿野郎」



 今日という日は二度と来ない。
 だが決して忘れることはないと、ゲンマは心を震わせた。







(10/03/28)