第一話「初めまして」
桜の花弁が舞い散る中、一人の男が歩いていた。
髪と目が茶色で、全体的に薄い色素で、左目の上に、細く切り傷の跡がうっすら残っていた。
ふわり、と目の前を過ぎるその花弁が頬にも触れ、その男はふと顔を上げ、桜並木を見上げた。そして桜の木の根元まで見下ろし、自分の足元を見渡す。
「なんてーの…ま、掃除が大変そうだね」
吹く風を恨めしく思いながら、その男――畠(はたけ)カカシは、誰も掃除することなどないことを知りつつそう表現した。
ここは木の葉大学という、由緒ある国立大学だった。
その大学の敷地内で、校舎から校庭にかけて歩きながら、その隣に立ち並ぶ桜並木を愛でる訳でもなく、ただ歩いているとそこに桜並木があることに気付いたという具合だった。桜が咲いているのは知っていたし、この大学の敷地内至る所に植樹されていることも知っている。こうして風に散りゆくのを惜しむ気持ちもあるが、今のカカシは気分が荒んでいた。
今日から、ここよりほんの少し先に建つ、『木の葉荘』に下宿することになっていた。
カカシはこの大学の生徒で、この春より二回生になる。
大学生になった当時は、割と近場にあるアパートで一人暮らしをしていた。けれども、そのアパートがこの一週間ほど前に、急に住民が出した小火が原因で改装する為、立ち退かなければならなくなった。急な話な上、もう新生活を開始する者達が近場のアパートやマンションなどに契約を済ませており、中々新しい住居が見つけられないでいた。そんなカカシに、一つ年上だが友人である猿飛アスマが声を掛けた。自分が住む下宿宿で、丁度一つだけ部屋が空いていると。
大学と眼と鼻の先にあるその下宿宿は、家賃も破格値に安く、住む場所を早く見つけたいカカシにとってはおいしい話ではあった。…が。
アスマに連れられ、契約を交わしに行った先には、しわくちゃの爺が居た。ここのオーナーだというその人物は契約書を差し出し、カカシもそれに署名した。した後で、下宿についての決まりを告げられた。
一、 女性禁制。誰人も連れ込むべからず。
二、 門限十二時。遅れる時は連絡する。
三、 管理人の言うことは絶対厳守すべし。
何だこれは、下宿っていうか寮と同じようなものじゃないか、とカカシは怒り、契約を破棄しようとしたが、その契約書には、『契約を交わしてから半年は契約破棄することが出来ない。もしするならば、契約違反として10万円徴収する』と書いてあった。
騙された。誰にというでもなく、そう思った。
よく契約書を見なかった自分が悪いといえばそうなのだが。
他人に縛られた生活など、大嫌いだったのに。
怒りに震えるカカシの肩をぽんと叩き、アスマは「これでお前もちったぁまともな生活送れるな!」と笑った。爺は、ふぉっふぉっと愉快そうに笑うだけだった。
「…あー…気分ワリー…。マジで契約破棄しよっかな」
実際の所は、そんなお金など無い。…いやあることはある。が、それは出来るなら使いたくないお金だった。
そんなことを考えつつ、ぶらりと歩いていたカカシは、息を吐き出し、来た道を引き返そうとした。カカシは弓道部に入っていて、今日は練習日ではなかったが気分転換にと来たのだが、それも億劫になっていた。
くるりと踵を返そうとしたカカシの視界に、ふと、人影が飛び込んできた。
桜並木の下で、誰も居ないはずの校庭をじっと睨むように、若い男が立っていた。その男は、真っ直ぐな瞳で校庭を見詰め、その瞳のように真っ直ぐ鼻の上を横切る傷痕が有った。凡庸な顔立ちが、それで印象深いものになる。それに珍しくも長い黒髪を後ろに束ね、学ランを着込んでいた。
(…高校生…かな? 何でこんなとこに…)
物珍しいと、カカシは足を止めてその男を見た。するとその男は、校庭を睨みつけていた眼を少し伏せ、自分の束ねられた髪をぎゅっと左手で握った。そして右手に持つハサミで、躊躇いなくその髪の束をジョキッと切った。
「…え…」
突然のその行動に、流石にカカシも眼を見開いて見入ってしまった。
切り落とされた髪が、男の左手からはらはらと風に乗って流れていく。男はザンバラになった髪型のまま、真っ直ぐ視線を校舎に向けた。その一途な瞳から、するり、と涙が一筋流れ落ちた。
「………」
風が流れを止めたように、カカシはそれを感じなくなった。
ただ、その男を見る眼から離せないままに、その場に立ち尽くしたのだった。
第一話「初めまして」
木の葉大学と眼と鼻の先にある『木の葉荘』。何と歩いて3分の距離だ。木の葉荘自体は、そんなに古くも無い建物で、2軒分ぐらいの大きさだった。二階建ての建物の上三階に当たる部分が、洗濯物を干す為のスペースになっていて、柵で囲まれたそこに建物からの出口になるであろう小さなコンクリートの部屋と、物干し竿が何本も掛かっている。そこを囲む柵に、『木の葉荘』と看板が掛けられていた。
「…だっさい名前」
その下宿宿の前で悪態を付いたが、やがてカカシは諦めたように溜息をつきながら、中へと入って行った。
玄関の戸をガラリとあけて、カカシは、取り敢えず自分の部屋へと向った。荷物は今朝の内に、部屋に運ばれているはずだった。荷物といってもそんなに無い。衣類の入ったケースが2つに、テレビに布団。後は細々としたものが入ったダンボールが二つ。
開けるのも面倒だなぁと、カカシは階段を登った。カカシの部屋は、二階の突き当たりにある六畳の部屋。隣は同じ大学の不知火ゲンマだった。同じ学部らしいが、歳は一つ下の一回生なので、新入生ということだ。他には三回生の山城青葉が居るが、これもまた知らない男だ。
特に他人に興味の無いカカシは、それらの部屋の前を素通りして自室へと入った。
パタンとドアを閉め、目の前にある荷物に、これを片すの面倒だなぁ、とまた息を吐いた。ともかく寝る為の布団だけ袋から引っ張り出し、それを畳の上に敷いた。畳は張り替えられたようで、青臭い真新しい匂いがした。ぐるりと見渡すと、壁も綺麗だしそれは気持ちいいものだった。
部屋の窓はひとつ。カーテンも掛けられていないその窓に近づき、ガラリと窓を開けた。丁度目の前に大学の校舎が見える。あんまりいい見晴らしじゃないなぁ、とカカシは窓から離れた。
すると風がびゅう、と入り、カカシの髪を乱した。
振り向けば、その風に乗って、桜の花弁が一枚、ひらりと部屋に入ってきた。
「すげー風」
呟きながら、カカシはその花弁を手に取り、ぼんやりと先ほどの男を思い返した。あんな所で、あんなことを。ザッと髪を切り、涙を一筋流した男は、もしかしなくてもこの大学に落ちた奴なんだろうな、と思った。
しかし今時、落ちたぐらいであんな風に髪を切るだろうか。まるで昔のドラマか漫画みたいだ。そんなことを考えていた時、
「おーいカカシ。居るんだろ? ちょっと出てこいや」
コンコンとドアをノックする音と共に、アスマの声がそう呼びかけた。
「…何?」
ガチャッとドアを開けて顔を出すと、やはりアスマがそこに立っていた。
「管理人が帰って来たんでな、顔合わせしとけよ」
「…管理人? あの爺か」
「違うありゃここのオーナー。下宿宿を建てた人だよ。そのオーナーに雇われてる管理人が居るんだ。お前が来たってんで、会いたいんだとよ」
「面倒臭い…」
言いつつ、仕方ないとばかりにカカシはアスマと共に階段を下った。
管理人ってどんな奴だろう、とぼんやり思っていると、向う先から声が聞こえてきた。
「……ンマさん、これを…」
「…いいぜ、そこに…」
ぼそぼそと、そんなやりとりが聞こえるのは、管理人室の手前にある台所からだった。
「ここか。おい、カカシ連れてきたぜ」
アスマがガチャッと開けた台所では、男が三人、皿に何か盛り付けていた。
「何でぇ、ゲンマだけじゃなく青葉も居たのか」
アスマに青葉と呼ばれた、短髪黒髪で眼鏡をかけた真面目そうな男は、少し照れくさそうに目を逸らした。もう一人の男は、薄い茶髪の前分けで、整った顔立ちだった。
その中で、唯一エプロンを付けている男を、カカシはまじまじと見た。
鼻の上に真っ直ぐの傷痕。ザンバラに不揃いの髪。
真っ直ぐな瞳。
学ランこそ着ていないが、カカシにはこの男が先ほど桜の下で見た男だと分かった。
「アンタ…――」
「アナタが畠カカシさんですね? 初めまして! 俺、海野イルカっていいます!」
にっこりと全開の笑顔を、そのイルカと名乗る男はカカシに向けた。そして手にしていた皿をテーブルの上に置き、カカシに歩み寄った。
「ここの管理人をさせてもらっています。これからよろしくお願いします!」
笑顔のまま、イルカはカカシに手を差し出し、握手を求めた。
「……」
カカシが止まったままなのを不審に思い、アスマは「おい?」と肩に手を置いた。イルカもどうしたのだろうかと、小首を傾げた。
「アンタが…管理人?」
「え? ええ、はい…」
「アンタ、さっき大学の桜の下で、泣いてたよね? 浪人生じゃ…」
無かったの、そう言いかけたカカシは言い終わるまでに頬を殴られ言えず仕舞いになった。
ガコンという音。拳骨を握り締める顔を真っ赤にしたイルカ。
殴られた頬を真っ赤にしたカカシ。
その光景を、息を飲んで見守る、ここの下宿人達。
これが木の葉荘の新しい一日の始まりだった。
(04.05.05up)