第二話「嫌いです」
カッチコッチと、壁に掛けられた時計が秒を刻む音が響き渡る。
夕暮れ時の木の葉荘のダイニングキッチンは、シーンとした気配の中、赤く腫れた頬を
濡らしたタオルで押さえるカカシ、その隣には気まずげに座るゲンマ、向かい合って青葉と
アスマがテーブルの席についていた。
「お…お待たせしました」
少しおずおずとした調子で、イルカが皆の元にジュースの入ったコップを置いて回った。
最後にカカシの元に行き、コップを置いた後、申し訳なさそうな声で告げた。
「すみません…俺…。あの、まだ痛みますか?」
「…いーえ。ジンジンするぐらいです。あ、これが痛いってのかな」
この馬鹿、と向かいに座るアスマが口パクで咎めた。
しゅんとしたイルカの背を、ゲンマが叩いた。
「まぁまぁ、とにかくおっぱじめようぜ」
皆が腰掛けるテーブルの上には、所狭しとご馳走が並んでいた。
何となく趣旨は掴めているが、カカシには要らぬ世話、余計なお世話だった。
イルカはいわゆる誕生日席に腰掛け、ゴホンと咳払いをした。
「それでは、えーと…新しく木の葉荘の住人になられた、畠カカシさんの歓迎会を始めたい
と思います」
皆が乾杯の為コップを持つ中、カカシは持とうとしなかった。
「おいカカシ、お前空気読め」
アスマがそう言うと、カカシは口を開いた。
「…あのさぁ、ここっていつもこんな感じ?」
「…え?」
カカシの問いかけに、イルカはきょとんとした。
「いちいち何かのお祝いしたりとかすんの? そういうのって、アットホームってのを
狙ってんのかもしんないけど、俺はして欲しいと思わないし、したいとも思わないんだよね。
構われたくないから、俺は外してくれていいよ」
「……!」
「カカシ!」
「やってもらっといてこんなこと言うのも何だけどさ。他の人達は楽しんでるなら、
別にそれはそれでいいと思うし。ともかく、俺はこういうのゴメンだから」
ガタッと音を立て、カカシは椅子から立ち上がった。
「…待って下さい」
すると、静かだが有無を言わせないような厳しさを含んだ声で、イルカがカカシを
呼び止めた。カカシは足を止め、振り向く。
「席に座ってください。契約書はちゃんと読まれましたか?」
「……!」
――管理人の言うことは絶対厳守すべし。
「アナタに食べてもらわないと、これ片付かないんです。勿体無いでしょう」
捨てれば、と言おうとしたが、カカシは渋々黙って席についた。イルカから、
何か張り詰めたようなものを感じたからだ。何、とは分からないが。
「それでは、改めまして、かんぱーい!」
元気良くイルカが音頭を取り、アスマとゲンマと青葉は慌ててコップを持ち上げた。
カカシはそうすることはしなかったが、ずず、と少し口にした。それを見て、
イルカはにっこりと笑った。
第二話「嫌いです」
三食付で月三万円ぽっきり。
大学寮より安いし、個室という条件の良さではあるが、
カカシにとってはやはりこの他人と生活において触れ合うことになる環境は嫌なものだった。
食事の用意もしなくていいが、またあのテーブルで食べなくてはいけないのか
と思うとやっぱり憂鬱だった。
カカシには、『家族』というものが無い。
いやあることはある。けれども物心をついた頃から、カカシは常に一人だった。
どうやって食を繋ぎ、生きてこれたのかも不明なほどに、カカシはどこぞの古い小さな
部屋を出たことは無かった。そこに時折りふらりと母親が帰ってきたかと思えば、
また何処かへ消える。
帰ってきた母親は、いつも煙草と香水の嫌な匂いがして、近寄る気になれなかった。
母親はカカシに笑い掛けるでもなく、あまり話し掛けることも無かった。ただ、
「似てないね」と何処か遠くを見ながら言うことがあった。
そんな日々が続いていたある日、腹が減って仕方が無く、カカシはぼんやりと、
もう駄目かもしれないと思った。
ただ寒くて、けれども暖め方も知らずに、カカシは身体を丸めて帰ってくるはずのない女
を待っていた。意識が行ったり来たりを繰り返していたが、ふと、薄っすらと開けた視界に、
入り込む光を浴びた人影は、待っていた女ではなく、知らない誰かだった。
次に眼を覚ますと、見慣れぬ天井が映し出された。いつもの埃と蜘蛛の巣に汚れた天井
ではなく、綺麗柄の入った天井。ふらりと視線を彷徨わせると、とても広い部屋の中に、
見慣れぬ女がこちらを覗き込んできた。
「ああ、良かった。意識が戻ったのね」
母親とは違う香水の匂い。
ぼんやりと、自分の腕につけられた管、その先にある吊るされた袋を見た。
数日は、その女との日々が続いた。女が何事か話しかけるが、カカシは答えることは
ないことに、女はついにおかしいと気付いた。
カカシはまともに話すことが出来なかった。
言葉を知らなかったのだった。
驚いたような顔をした男が、それから暫くして入ってきた。初めて見る顔は、カカシに
こう言った。
「私がお前の父親だよ」
そう言われても、カカシはぼんやりとしたまま見返すだけだった。男は、
そんなカカシに少し辛そうに目を細めた。
それからカカシは、専属の家庭教師が付き、言葉から学校教育に渡り、一般知識などを
教わった。カカシは元来頭が良かったようで、それらをするすると飲み込んでいった。
自身のことについても知った。
カカシの母親は、スゥエーデンの生まれで、小さな頃に日本に移住した。そこで出会った
男に恋をしたが、その男は由緒有る家柄で、外国籍の女とは認めてもらえず、女はある日
忽然と男の前から姿を消した。
女は一人で子供を――カカシを産み育てた。そして、死んだ。
死ぬ前に、女は男を捜したようだった。かつては愛した男にもう一度会いたかったのか、
それとも残すカカシを頼みたかったのか。病気で衰弱死してしまった女が発見され、
話題になり、男はそれを知った。
そうして男は、女を手厚く葬り、その際にカカシの存在を知ったのだった。
見つけ出したカカシは衰弱しきっていて、直ちに引き取り看病をした。しかし男は家柄も
あるが家庭もあり、また大企業の社長でもあった。女をそっと葬ることは出来ても、
私生児が居たとなると話しは変わる。認知することもなく、家で養うでもなく、
離れたマンションの一室を借り、そこで家政婦を雇って面倒を見させた。
そんな背景が有り、カカシが学校に行きだすようになったのは中学生になってからだった。
中学校でカカシは異質だった。誰とも係わろうともせずに居るし、その上身なりが人目を
引いた。母親譲りの銀髪に青い瞳。そのことが原因で、よく不良などに絡まれた。
我関せずを貫いていたカカシは、挑発に乗ることも無かったが、そのことが返って
不良グループの怒りを買った。
ある日、裏庭に連れ出されたカカシは、袋叩きされそうになったが、実はカカシも
喧嘩は強かった。一見ヤワに見えたが、カカシの身のこなしや鋭い足蹴りなどは、
不良グループの及ぶ所ではなかった。そんな体術も、専属教師に身につけさせられていたの
だった。
勝ち目は無いと思った不良達だったが、諦めの悪い男のナイフがカカシの左目を
真っ直ぐ切りつけた。
以来、その左目は、見えることには不自由しないが、血が滴ったような赤い眼になって
しまった。絡まれるのもウザイと思ったカカシは、鬘を被り、カラーコンタクトで眼の色
を茶色にした。
そんな経歴を持つカカシには、どうにもこのアットホーム的な雰囲気が苦手だった。
歳を追うごとに、人付き合いも出来るようになりはしたが、家の中でも誰かと接しなけれ
ばならないということがしんどかった。
「…おいカカシ、入るぞ」
ドアを数度ノックして、アスマが入ってきた。
このアスマとは、高校の時に知り合った。ひとつ年上だが妙にウマが合い、一緒に居ても
苦痛ではなかった。アスマは必要以上に他人に入ってこない。興味本位で動かない。
そこが良かったのかもしれない。
畳の上に胡坐をかくカカシの前に、アスマも同じように胡坐を掻いて座った。
「お前なぁ、協調性が無いのは分かっていたが、あれじゃイルカが可哀想だろ。優しく
してやれとは言わねぇが、もうちっと穏やかに接しろよ」
「…珍しくお説教かよアスマ。お前、あいつのことになるといやに口うるさくなるね。
でも俺は普通に接しているつもりだけど」
「…そうだよな。お前は誰に対しても分け隔てなく冷てぇもんな」
「突っかかるなぁ。大体俺はお前を恨んでるんだ。こんなとこ紹介しちゃってさ。条件とか
知ってて俺に伏せてただろ。お前の責任もあるんだぞ」
「何だよいい条件だろ? 三食付きで学校も近い上に安い。言うこと無しだろーがよ」
「よく言うね。そんないい条件で空き部屋があったこと自体おかしい」
「ここは一般で募集なんてしてねーの。あの爺さんも変わり者でね。って俺の爺さんだ
けどよ」
「え?」
「俺はここのオーナーの孫なんだよ」
「そーなの?」
驚き、ぱちくりと瞬くカカシは、オーナーの顔を思い出そうとした。言われて見れば
似ているのかもしれない。猿みたいなところとか。
「まぁいい。これだけは言っておく。イルカに、浪人だ何だとだけは言うなよ」
そうアスマが言うと、カカシは僅かに身を乗り出した。
「あ、それ。やっぱあの人って、浪人生なの? でも何でこんなとこの管理人なんて
やってんの。爺の孫か何か?」
「いや違う。孫じゃねえし、浪人でもねえ。…気になるのか?」
にやりと笑うアスマが癇にさわり、カカシは別に、と返した。
するとその時、ドアをノックする音がした。
「すみません、あの、イルカですけど…入っていいですか?」
躊躇いがちに掛けられた声に、カカシが反応するより早く、アスマが返した。
「いいぜ、イルカ。俺はもう出て行くからよ」
「へ? おい何勝手に…」
咎めるカカシを無視して、アスマは立ち上がりドアを開けた。
「しっかし、お前えらくざんばらに切ったんだな。自分で切ったのか?」
先ほどは、空気が悪いせいで聞けなかったことを、思い出したかのようにしてアスマはイルカに
尋ねた。イルカは、苦笑いをしながら「はい」とだけ答えた。
カカシの脳裏には、あの時桜の下で自分の髪を切ったイルカが思い出された。
アスマはそれ以上何も言わずに、イルカの背を押し、自分と入れ替わりでイルカを
入室させ、ドアを閉めた。
「……あの…」
「…ま、座ったら?」
素っ気無くカカシが言い、イルカは少し躊躇した後、じゃあ、とその場に正座した。
「さっきは…本当にすみませんでした。もう、頬は大丈夫ですか?」
言われて、ああ、とカカシは思い出した。そういえば頬を殴られたのだった。
痛みが引くと、そんなことは忘れていた。
「別に。アンタ、いいパンチしてるね」
「…すみません」
別段責めるつもりもなく言ったのだが、イルカは小さくなってまた謝った。こんなに
効いたのはそう無い経験だったから、そう言っただけだったのだが。
「謝りにきたのなら、もういいよ。痛くなんかないし、怒ってもいないから」
「あっ、違います! 謝りたかったのもそうですが、俺、ちゃんと挨拶したくって…」
「……」
挨拶って、もう十分じゃないかなと思ったカカシは、とても面倒臭い気分になった。
そんなことより。
そんなことより、知りたいことがある。
「改めまして、俺、ここの管理人をさせてもらっている、海野イルカといいます。
不束者ですが、よろしくお願いします!」
そう言って、イルカはがばりと頭を下げた。はぁ…、とカカシは生返事を返す。
「何かあったら、遠慮なく言って下さいね。分からないこととかも、何でも聞いて下さい」
「……アンタ…――」
それではと聞こうとして、カカシはそれ以上言葉にするのを躊躇った。アスマに口止め
されたことに、このことは抵触するのではないだろうかと。
しかし、気になる。
どうしてあの時、あの場所で、あんな風に…。
今まで知りたいと特に思った物事はない。特に特定の誰かのことをなど。
だから知れないことに苛立ちを感じ、カカシは少しムッとした雰囲気を纏ってしまった。
「あの…俺のこと、もしかして…き、嫌いですか…?」
そんなカカシに感じたのか、イルカは躊躇いがちにそんなことを聞いてきた。
嫌いと聞かれて、誰かを今まで嫌ったことも好いたことも無いカカシは、もしかして
こういう苛立った感情を持つ相手のことを、そう言うのだろうかと思った。
「嫌いです…多分」
だから、そんな風に返答をした。苛立ちのまま、つい口をついてしまった所もある。
言われたイルカは、その真っ直ぐな瞳に哀しい色を乗せた。その瞳を見たカカシは、
胸がチリリと、小さく痛んだ。言ってしまった方が余計にいやな気分になったカカシは、
何かを言おうとしたが何を言いたいのか分からなかった。
「そうですか…それは仕方の無いことです。でも、ここに居る以上は、共同生活になるので
我慢してご飯も皆と食べてください。俺が言いたいのは、それだけです」
イルカはそう言うと、すっくと立ち上がった。
カカシは何かを言わなければと、口を開けるだけでやっぱり言うべき言葉が浮かんでは
こなかった。
イルカはドアを開け、カカシを振り返って、にっこりと微笑んだ。
そして、ドアをパタンと閉めた。
(04.05.06up)