黒き焔
外伝【前編】
イルカの朝は早い。
二番鳥が鳴く頃に目覚め、その朝日が昇るような頃合から、活動を始める。
他の奴隷達も同じで、服を着替え、川辺で顔を洗い、そして各々に与えられた仕事をこなしていくのだ。
イルカに与えられた仕事は、ここの奴隷に身をやつしてよりずっと、カカシの世話をすることそれのみだった。
カカシの三度の食事を運ぶこと。
カカシの呼び出しにはすぐさまカカシの元へと向うこと。
仕事というほどではない。
他の奴隷達に比べたら、自分は何と恵まれたことか。
ただでさえ、カカシに仕えることが出来るのだ。
カカシの為なら、イルカは何だって出来た。
イルカは、自分がカカシの為だけに存在すると思っていたし、そのことを誇りにも思っていた。
あの、石牢の中に住む、この地上で一番美しく、尊いひと。
奴隷の身である自分が、そんなひとの傍に居れるということに、イルカは幸福を感じていた。
朝早くに起きて、それからカカシの元へ最初の食事を運ぶ前に、イルカはこっそりと修行をしていた。
奴隷の手前、イルカだけ遅くまで寝ているわけにもいかないので、皆と同じ時間に起きたはいいが、することも特に無いし、手伝うとなるとカカシが怒るので、イルカはその時間を利用して、武術を自己流にだが磨いていた。
いつ、何が起こっても、カカシを守れるように。
やがて朝食を運ぶ時間が迫ってきて、イルカは汗を流しに川へ向った。
川の水で身を注ぎ、布で濡れた肌を拭いて服を着替え、調理場に向かい、カカシ用に作られた食事を受け取り、石牢へと向う。
幾分涼しくなった風を受けながら、もうすぐカカシと出会った日になるのだと思った。
カカシが十三歳の時に、イルカは出会った。
イルカはその時十二歳だった。今は、多分十五歳。カカシがもうすぐ十六歳になるのだから。
イルカは、自分の誕生日を憶えていない。
それどころか、自分の両親さえ顔を朧気に憶えているぐらいだ。
自分のことで憶えているのは、名前と年齢ぐらいだった。
イルカの記憶の始まりは、両親と共に戦火の中を逃げ惑ったこと。
暗闇の中、炎と共に襲い来る敵襲、その中でたくさんの村人が悲鳴を上げてそこかしに逃げようとし、その時の辺りから発せられた悲鳴と嘆きは、耳にこびりついて離れなかった。
そんな中を、イルカの両親はイルカの手を引き、走っていた。イルカも必死に手を離されまいと、ついて走った。
走って走って走って、そこだけが憶えている全て。
その後、どこをどうなったのか。
気付けば、朝日に照らされた一帯には、死体の山が築かれていた。
イルカは呆然として、その累々と地に倒れ伏した村人達を見渡し、その先に――自分の両親も倒れていた。
足がもつれるかのような感覚に、けれどもイルカは無自覚のように走っていた。両親の元へ。
いつも自分に笑いかけてくれた両親は、もう微笑むことは無かった。
「…とーさま…?」
『イルカ』
「かーさま…」
『どうしたの、イルカったら』
もう、名を呼んでくれることは無かった。
そうして、両親の死体の前で崩れ落ちた膝のまま、茫然としていると、そこに生きた人間達が近づいてきた。
その者達は、そこら一帯でただ一人生きていた子供であるイルカを発見すると、無抵抗に気力無く引きずられるイルカを、自分達の里へ連れ帰った。
それが、憶えている全て。
その後奴隷として足枷を付けられ、カカシの世話を仰せつかった。
イルカは記憶の無いことを、多分両親の死の為に、そのショックで失ったのだろうと思っていた。
それに、過去の記憶はもうどうでもよかった。
今は、カカシの傍に居る、それが全てであった。
「…どうした? イルカ」
石牢の中、いつものようにカカシに給仕していたイルカは、カカシに名を呼ばれてハッとした。
石牢の柵越しに、二人は向かい合っていた。
カカシは柵のすぐ傍で食事をして、イルカも柵のすぐ傍に座っていた。
カカシの前で、ぼうっとしていたようだった。恥ずかしい。
「い、いえ、何でも無いです」
「そう? 本当に?」
胡乱気にイルカを見つめるカカシに、イルカは恥ずかしくて染めた頬を隠すように、俯いた。失態だ、何てことを。主人の前で。
「……ふぅん? オレに隠し事なんかするんだ」
しかしそんな風に言われ、イルカは顔を上げた。怒っているのか、カカシは不機嫌なようだった。
「いえそんな、違います隠し事だなんて…。すみません、ちょっとだけ、考え事をしていて…大したことは無いんです」
「何? オレの前で、何考えてたの?」
すると更に機嫌を悪くしたような声で、カカシが問い詰めた。
「その…すみません」
イルカはどうしようと思って、ともかく謝った。
「謝ったってダーメ。言ったよね? アンタはオレのもんだって」
「は…はい」
そう。自分は、カカシに仕える為に存在する奴隷だ。
「だったら何考えてたのか言ってみな」
「え…」
「オレのこと以外考えるのは、禁止。それなのに、オレの前でオレ以外のこと考えてたなんて許せない」
「………」
有無を言わさぬ強い命に、イルカは戸惑った。
どうしてこんな。
いつだって、自分はカカシのこと以外、考えてなんかないのに。
「…その…、カカシさんと、初めて出会ったのが、ちょうどこれぐらいの時期だな…って、思ってたんです」
しかしそう言葉に載せると。
さっきまでムスッとしていたカカシは、見る見る間に上機嫌になって、笑顔を見せた。
「…なぁんだ。オレのこと、考えてたんだ」
「……」
イルカはそんなカカシに、赤くなって俯いた。
改めて言葉にされると照れてしまうし、何よりカカシの笑顔を見て、胸がドキドキとしてしまった。
「…菊月の十五」
「…え?」
「オレの、生まれた日。その日に、アンタと初めて出会った」
そうだったのか。
今まで仕えていて間抜けた話だが、カカシの誕生日を知らなかったし、知ろうともしなかった。イルカは自分が恥ずかしくなった。
カカシの傍に居て、毎日が幸せだったから。別段、他に何も求めていなかった。
しかし、カカシの誕生日に引き合わされたのか。
ということは、カカシは誕生日に、この石牢に独り、閉じ込められたのだ。
「……」
そんな日に、こんな所に閉じ込められるなど。
カカシを、ここから出してあげたいと、イルカは思っていた。
奴隷の自分などがおこがましいかもしれないが。カカシにも外の世界を見せてあげたかった。春のたんぽぽ、夏の夜の蛍、秋の鈴虫、冬の雪うさぎ、それらはイルカがカカシの元へと運んだが、大運河のような星の輝く夜空、秋の黄金に輝く稲穂の畑、そういったものを見せることが出来なかった。
だけど自分だって、この足枷で縛られている身なのだ。
カカシがこんな所に閉じ込められて一生を過ごさねばならない、その理由は知っていた。奴隷には奴隷の、情報というものがある。
勿体無い。そして愚かなことだ。
カカシの銀色の髪も、色違いの瞳も、こんなにも美しいものなのに。
イルカはそのカカシの外見に、初めて出会った頃から、心惹かれていた。
「生誕のその日と、名前が、オレの貰った全てだ」
「カカシさん…」
「でも」
言い掛け、カカシは腕を伸ばした。柵の外、イルカに向って。
カカシの手の平が、イルカの頬に触れる。
「アンタは誰かに貰ったんじゃない。アンタは、オレが望み、手に入れたんだ」
「……ッ」
イルカは、目を見開いた。
カカシは口の端を歪めて笑った。
「アンタが居ればそれでいい。…ここに入れられて、良かった。でないと、アンタを手に入れることが出来なかった」
「カカシ、さん」
イルカは、瞳を震わせた。必死に瞬いて、零れそうなものを押し込めようとした。
「…もっとこっちおいで、イルカ」
柵が邪魔で、これ以上近寄れないから。
そう告げられ、イルカはおず…、としながらも、カカシの傍に寄った。柵に、イルカの身体が触れ、それ以上近くにはいけないところまで行くと、カカシはもう片方の腕を伸ばして、イルカの身体を抱きしめた。
ぎゅうと、背中に回るカカシの力強い腕の感触と、阻まれた柵の冷たい感触と。
イルカからは腕を伸ばせない。自分は奴隷の身なのだ。どれほどカカシがそれを構わないひとだといえども、イルカには越えることが出来なかった。
分かっている、このひとには、自分しか接する人間が居ないから。
だから己などを、望んでくれるのだ。
でも、それでも。
イルカは胸を刺す甘い痛みに、そっと瞳を閉じた。
(05.09.15up)