第十一話「ごめんなさい、カカシさん」
その日、青葉はるんるんといった調子で木の葉荘に帰宅した。
今日一日だけの日雇いのバイト。日中立ちっぱなしで足は疲れたが、懐は少々潤った。お陰で、
イルカに誕生日プレゼントを買うことが出来た。
青葉は誕生日プレゼントの入った包みを大事そうに持ち、玄関の戸を開けようとした。
「…ん?」
しかし開かない。まだ誰も帰っていないのか。
イルカの出迎えがないのを残念に思いながらも、青葉は指定の場所にある鍵を取り出し、戸を開けた。
真っ暗な玄関に、明かりをつける。
何となく、こういったことは久しぶりな気がした。
今まで、ほんの最近まではこんな暮らしだったのに、今は「ただいま」と言うことが無いのを寂しいと思う。
お帰りなさい、そう言って微笑むイルカが居ないのが寂しい。
しかしイルカも今は居ないとはいえ、すぐに帰ってくるだろう、そう思いながら、靴を脱いだ。
部屋に入り、一息つくと、そういえばこんな風に全員が出払っているなんて珍しい、
というか初めてだなと思った。少なくともイルカはいつも居たはずだ。
そんなことを考えているうちに、ゲンマが帰ってきたようだった。イルカでなかったことを
残念に思いながら、青葉はイルカの帰りを待った。
時計を見ては落ち着かない気持ちでいると、しらばくして、また玄関の戸を開ける音がした。
部屋の戸を開き、聞き耳を立てていると、どうやらそれはアスマのようだった。
またイルカでなかったと思って息を吐くと、ふと、もう一人の不在に思い至った。
青葉の第六感がピカッと光った。
「ただいま」
アスマは言いながら玄関の戸を開けた。
今日は割合勝てた方だ。口元を笑ませながら、パチンコの景品の入った袋を見た。
三万と、CDがひとつ。以前イルカが好きだと言っていたバンドのものだ。当分の生活費と
イルカへのプレゼントが稼げた。
そんなことを考えていると、ドドド、と地響きを立てて、青葉が走り寄ってきた。
「アスマ! お前イルカを知らないか?」
必死な顔をして尋ねてくる青葉に、アスマは一つ息を吐いた。
「知らねぇよ。ったく、ガキじゃねーんだから、ほっとけよ。その内帰ってくるだろ」
「…畠カカシも居ないんだ…」
「…は?」
アスマはいきなり話が見えなくなり、首を傾げた。青葉は必死な顔のまま続けた。
「畠カカシは何処へ行ったか知っているか?」
「いや、知らねぇけど」
「嫌な予感がする…もしかすると、畠カカシと一緒なのかもしれない…」
「はぁ? 別に一緒だっつってもどっか食べに行ってるとかそんなんじゃねえのか? そんくらい…」
「こっこんな時間までか!?」
鼻息荒く真顔で問い詰められ、アスマは視線を逸らした。その先、壁に時計が掛けられている。
「……まだ八時じゃねえか…」
今時小学生だって心配なんてしない。ましてや男二人で出かけたとしたなら、何の心配も無いじゃないか。
「俺は、畠カカシと一緒というのが不安なんだ」
「何でだ? あいつはまぁ、変わってるが別に一緒だからってだな、」
「あいつは危険だ! 俺の第六感がそう叫んでいるんだ!」
アスマの説得などものともせずに、青葉は握り締めた拳を胸元に上げ、ワナワナと震えた。
何を言っても無駄だと、アスマは悟った。
第十一話「ごめんなさい、カカシさん」
観覧車には、カップルばかりが列を作っていた。
「…俺達、浮いてますよね」
並んでいる時に、イルカがぽつりとそう言って、苦笑いをした。
「何で?」
分からずに問うと、イルカは「それはその…」と言いかけたが、やがて本当に笑い出した。
「何だか、カカシさんと居ると、気にするのが馬鹿らしくなってきました」
「?」
何を気にすることがあるのだろうか、とカカシは思った。
ふと、何かを思いついたような顔で、イルカはいきなりカカシの腕を組んだ。
「こうしていると、普通にカップルに見えるかも。…さっきの女の人たち、
俺の事男って遠目で分からなかったみたいだし」
カカシの左腕に、悪戯をするような顔で抱きつくように両腕を回したかと思えば、
面白く無さそうに唇を尖らせた。気にしていたらしい。
カカシはイルカの、ザンバラに自分で切った髪に触った。
「少し長めだからかな…とても女に見えない顔だし」
「あ、そっか、それでか」
イルカは腕を離し、自分の髪に触れた。
あの、桜の木の下で、自分の髪を切ったイルカを思い出す。
そうこうするうちに、列は前へと進んでいった。もうすぐ自分たちの番だ。イルカは観覧車を見上げて
言った。
「…俺、昔に両親と一緒に、遊園地に行ったことがあるんです。後にも先にもあれ一回だけ。俺、
嬉しくって、はしゃいで色んな乗り物に乗りました」
思い出した過去に、くすりとイルカは笑った。
大きなぬいぐるみに子供達が集る。その手にした赤や黄や白の風船が、
晴れた空に吸い込まれるように飛んでいく。
音楽や客の歓声や喚声で、賑やかでわくわくした。
「俺、ジェットコースターや急流すべりとか、そういうのが乗りたくて、
疲れて観覧車に乗ろうと言った両親に、嫌だって言って乗らなかったんです。何だか、勿体無くて。
ほら観覧車って、ゆっくり回っているだけじゃないですか」
子供心に、なんてつまらない乗り物があるのだろうと思った。どうしてあんなのに乗っている人が
居るのだろうかと。けれども、とイルカは言う。けれども、
「…乗れば良かったな、と今は思うんです。あの時乗っていれば、どんな景色が見えたのだろうかって」
「……」
また何かを懐かしむように、そして寂しそうに笑むイルカに、見える景色に何か意味はあるものだろうか、
とカカシは思った。
過去に一度、カカシは観覧車に乗ったことがある。女にせがまれて乗ったのだが、余りのつまらなさに
もう乗るものかと思っていた。どうして女が乗りたがるのか分からなかった。もしかすると、
良さが分からない自分がおかしいのだろうか、本当は良いものなのだろうかと思い、
テレビでも言っていたことだしと、イルカを連れて行こうと思ったのだが。
イルカと乗ると、また違うのかもしれないと思ったのもある。
やがて自分達の番になり、ようやく観覧車に乗った。イルカとカカシは向かい合うようにして座った。
ガシャンと入り口が閉まり、上へと動き出す。ゆっくり、ゆっくりと。
「…そういえば、カカシさんの子供時代はどんなのだったんですか?」
乗り出してから、イルカがそんなことを尋ねてきた。
「俺?」
「はい。俺のこと話したから、今度はカカシさんの番です」
「…俺、あんま子供の頃って覚えてなかった」
「え?」
イルカはきょとんとした顔をした。
「覚えているのは…何だろう、時計の針が進む音とか、寝転んでそれを見上げていたこととか。
母親の顔もよく覚えていない」
「……」
何をどう食べて生きてきたのかも覚えていない。でも何かしら口にしていたから生きていたのだろう、
それだけだ。
母親の記憶は、とても曖昧で霞みかかったようなものだった。煙草と香水臭かったことと、
「似てないね」と言ったこと。
その母親の手の温もりも覚えていないけれども。鮮明に、そう言われた時のことは覚えていた。
「…ごめんなさい、カカシさん」
イルカが、しゅんとして俯き加減で詫びた。けれどもカカシはイルカが何を謝るのか分からなかった。
「何が?」
「俺…嫌な質問したりして」
「別に。嫌なこと無いよ」
「でも…」
「それと、帰って来ないのを待つのは嫌なもんだったな、って何か思い出した」
「……!」
イルカはハッとしたような顔で、カカシを見た。
「それって…」
「俺の母親も、アンタの両親みたいにどっか行ったまま、死んだんだ」
イルカは言葉を失くして、ただじっとカカシを見つめた。その瞳が揺れるのを見て、
カカシの胸が少し痛んだ。変なことを言ったのだろうか。
戸惑っていると、イルカは困ったように眉を寄せて、けれども笑った。
「カカシさんて、本当に不器用な人ですね」
笑ってそう言われ、カカシは何のことだろうかと分からなかった。不器用など、初めて言われた。
分からないと疑問を顔に浮かべるカカシに答えることなく、イルカは携帯を取り出し、嬉しそうに笑った。
分からないが、嬉しそうなイルカに、まぁいいかと思ったカカシは、ふと思っていたことを言った。
「…そういえば、不思議なんだけど。思えば、アンタの握ったおにぎりを食べてから、
妙に過去のこと思い出すようになった」
「え…」
イルカは驚いた顔をした。
「母親のことは思い出せないけど、アリスのことを思い出したよ。昔、居たんだ確かに。
どうして忘れてたのかな…」
「…アリスって…さっきの、大学の先生の友達?」
「違う。別のアリス」
イルカは訳が分からないといったように、首を傾げた。カカシはそんなイルカに構わず、淡々と続けた。
少しだけ思い出した『アリス』のことを。
「アリスの顔は覚えていないけど、とても柔らかい手をしていたよ。そしてさ、最近思い出したんだけど、
おにぎり握ってくれた」
「おにぎり…?」
「そう。多分、アンタと同じ味。あの頃何食べてたか忘れてたけど、それを思い出した」
いつ頃の光景だかはっきりとはしない、アリスの顔も何もかも分からないままだけれども、
それだけは思い出せた。しかしそれ以上は思い出せない。何処かからか胸がざわざわと変に騒ぎ、
思考を止めてしまうのだ。
今もまた、その先を探ろうとすればいやに苦しくなる。
ふと、頬に暖かいものが触れ、何かと思えば、イルカの手だった。イルカが腕を伸ばして、
頬に触れてきたのだ。
「カカシさん、苦しそう…大丈夫ですか?」
いたわる様な声の響きに、暖かい温もり。思わず、心が安らいでいく。
不思議だった。
イルカという存在は、一体何なのだろうか。
この手の温もりは、遠く微かにある記憶と重なる。
「…アンタ…アリスみたい」
「え?」
その時、少しカクンと観覧車が揺れた。その拍子に、イルカは何かに気づいたようにその眼を大きく開き、
黒い目にキラキラと輝きを映し出す。カカシはイルカのその輝きに眼を奪われたが、
イルカは窓へと身体を向けて、張り付くように外の景色を見下ろした。温もりが離れたことと、
イルカの眼が他に移ったことに、少し面白くない気持ちでいると、
「カカシさん、見て下さい! ここがてっぺんみたいですよ。凄く景色が綺麗です!」
イルカがとても嬉しそうに、はしゃいだ声で言った。カカシはそっと動き、何だとイルカの背中越しに、
その景色を見た。
「…――」
夜空の星が落ちてきたかのような、美しい光が地上一面にひしめくように輝いていた。
二人共、今まで見えていなかったのが不思議なぐらいだった。
初めて眼にする光景に、カカシも見入った。
「ね、綺麗ですね」
すると、そこでイルカが、顔だけ振り向かせた。
カカシの顔と、ほんの少しの距離。
その瞳にも、未だにキラキラと小さな星が輝いていた。
カカシが窓についた右手を少しずらせば、同じように窓についていたイルカの右手に触れる。
誰かの手に自ら触れたのは初めてで、その心地良さにカカシはイルカの手の指と指の間に自分の指を挟んで、
そっと握る。
「…カカシ、さん?」
戸惑いに揺れる、イルカの黒い瞳。
すぐ、間近に。
睫毛が触れそうだ、と思い、瞳を閉じた。
――次には、唇が同じ温もりに触れた。
(04.11.08up)