第十三話「この世で一番愛しい」
「うおーい、カカシ君やないか!」
遠く、背後から声を掛けられ、カカシは振り向いた。
思った通り、そこには人の良さそうな笑みを浮かべて手を振る、関西弁を喋る男が居た。
その隣に、友人の助教授。
「どーも」
言いながら、頭を少し下げた。
助教授の友人は走りより、助教授はその後をゆっくりと歩いた。友人の元気良さについていけないらしい。
「また来てたんですか?」
「おう。これからこいつの奢りで食べに行くんや。こないだの事件解決に、俺が力を貸したったからな」
笑う友人の背後で、助教授はやれやれといった顔をして白髪交じりの髪をボリボリと掻いた。
この頭のきれる助教授は、よく警察からの依頼で難事件を解決へと導く、
言わば探偵のようなことをしているらしい。そしてその助手として、
この陽気な関西人がついていくこともあると聞いた。
「カカシ君もどうや? もう、仲ようやってんのか? 管理人の子と」
「え…」
尋ねられ、カカシは戸惑った反応をした。おや、と友人が首を傾げた。
「何や俺の言うた通りやなかったんか? 嫌いや思ってたんは勘違いやったんやろ?」
「ああ…それは」
カカシはこくりと頷いた。
「そーやろそーやろ。俺のアドバイスは見事なもんやからな。な、助教授!」
得意げに後方の友人を振り向けば、助教授は皮肉な笑みを浮かべた。
「流石売れっ子小説家様。次回作の推理も期待しているよ」
「五月蝿いわ! 今にお前をあっと言わせる名推理を書いたる。って、そんなことはどうでもええねん。
せやったら、何でやねん?」
普段はそう他人のプライベートに首を突っ込むようなことはしないこの友人は、
カカシのことが気になるようだった。以前に、火村と少し似ている、と零したことがある。それに、
カカシはこのアリスに素直な所があった。誰かと同じ名前らしく、普段他人の言うことなど聞く耳持たぬ
くせに、アリスの言うことは、素直に受け入れてしまう。そんな所が、アリスには可愛く
思えてしまうのだろう。
アリスに対して素直なことなど何一つ無い火村だが、アリスの言わんとすることは分かっていた。
どちらも人との付き合いが苦手だ。
自分にはアリスが居たが、この青年には誰かが居るのだろうか。
カカシは少し言いよどみ、手に持つ鞄をチラリと見た。
そこには空になっている弁当箱が入っている。
「…嫌われたみたい」
カカシはぽつりと呟いた。
『似てないね。…似てたら、愛されたかもしれないのに』
過去に言われた言葉を覚えている。
では、イルカは何故なのだろうか。
分からないが、自分を拒絶する姿は――遠い日の思い出と重なった。
第十三話「この世で一番愛しい」
木の葉荘に、二人の影。
固まったまま、目の前に立つ紳士を見つめるイルカは、やがて動きを取り戻した。
キッと、きつく先程名乗った紳士を睨みつけて言った。
「そんな嘘をついて、何のつもりですかっ!?」
「え…? いえ、嘘では…」
そんなイルカの対応に、エノキと名乗った男は戸惑いの声を上げた。
「カカシさんにお父さんは居てません。だから、そんなことを言っても無駄です。
新手の詐欺師さんのようですが、警察に突き出されたくなかったら今すぐここから去って下さい」
両親が居ないからここ木の葉荘に居住出来るのだ。
どうしてカカシのことを知り、その父を名乗るなど愚行を犯すのか分からないが、
イルカにはその嘘は癇に障った。
「事情を説明しますから、信じて下さい。確かに戸籍上では私の息子ではありませんが…」
「ホラ嘘だ! もう帰って下さい!」
イルカは三和土に入り、玄関の戸を内側から閉めようとすると、それをエノキがとどめた。
「話を聞いて下さいっ」
「くそっ、何てしつこいんだ…! それじゃあ、カカシさんのお母さんの名前を言ってみて下さい!」
睨みつけながら言うと、エノキは驚いたように目を見開いた。イルカは頭に血が上りながらも、
その反応におかしなものを感じた。応えられなくて困った顔ではなく、何故驚く必要があるのか。
「…どうしてカカシの母親の名を…アナタが知っているのですか…?」
逆に尋ねられ、イルカは詰まった。
母の名は知らない。ただのカマ掛けだった。カカシ本人でさえ、覚えていないという母親のことを
知っている人など居ないと思ったのだ。
「カカシは…思い出したんですか?」
動揺を露に、男がまた尋ねてきた。
イルカは目を戸惑いに揺らす。
『思い出した』などと言うとは…何故…。
イルカは戸を閉めようとしていた手から力を抜いた。
まじまじと、男を見つめる。カカシとは全然似ていない。けれども。
ごくりとイルカは唾を飲み込んだ。
「…それじゃあ…、…アリス、って名のひとのことを、知っていますか…?」
イルカがカカシについて知っている、誰も知らないようなことはそれぐらい。
しかしその名は、男を更に激しく揺さぶったようだった。
「……あ…、あの…」
眉を寄せた男の唇が揺れている。
今にも泣き出しそうに。
「思い出したんですね…あの子は…」
さあ、ゲームを始めましょう。
私の名前はアリス。
アナタの名前は…?
木の葉荘の客間は六畳ほどの大きさになる。
その部屋の中で、カチャ、と音を立てながら、イルカはソファに腰掛けるエノキの手前、テーブルの上に、
コーヒーカップを置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
イルカは自分の分も置き、テーブルを挟んだ向かいに腰掛けた。
エノキはカップを手に取り、一口ブラックのまま飲んだ。そして受け皿に戻して、手を腿の上で組み、
じっとイルカを見つめた。
「…先ほどは、失礼なことを言ってすみませんでした」
イルカは頬をほんのり染めて、頭を下げた。
「い、いえいえっ、私を不審者と思ってもそれは仕方ないです。管理人さんとして当然の行為です」
エノキは慌てて言った。
イルカが顔を上げると、エノキはホッとした様子で、小さく息をついた。
「…カカシは…、どうやら余程アナタに心を開いているようですね」
言われて、イルカは反射的に赤くなった。けれどもすぐさま、「違います」と反論した。
カカシは自分を嫌いではない、とは言ってくれたが、そんな風に言ってもらえるほどではない。第一、
そんな風になってもらえるようなことを自分はしていない。
けれどもエノキは取り合わなかった。
「そんな照れなくてもいいじゃないですか。カカシは難しい子でね、誰にも自らを語ろうとはしないんです。
けれども…良かった、アナタのような方が傍に居てくれたなんて」
イルカは益々赤くなって、身の置き所の無い気持ちになった。
「…しかし、全てを思い出したわけじゃないんですね。アリスが誰だか分からない…か…」
エノキは辛そうに、眉を寄せた。
イルカはドキンと大きく胸が鳴った。
アリス、という存在。それが一体、どういう存在で、どんな人だったのか。
密かに気になっていた。正直ずっとぐるぐる頭を回っていた。
カカシがアリスに似ている、と自分を評したからだ。
そして、あのキスも…そのアリスに似ているからだと、思っていた。
…尋ねてもいいのだろうか…?
思えども、それは躊躇われた。この人は、多分全てを知っている。だが、カカシに内緒で
聞いてもいいのだろうか。それに、知っているならどうしてカカシは父親だというのに聞かないのだろう。
そう思っているのを察したかのように、エノキがイルカに向かって告げた。
「…管理人さん、アナタにカカシのことを聞いてもらえますか?」
「…え…?」
ドクン、とまた大きく胸を打つ鼓動。
聞きたい。知りたい。
けれども、と揺れる心のまま返答をしかねていると、エノキは「どうか聞いて下さい」と言った。
真っ直ぐイルカを見つめる目は、ひたむきで必死さが窺えた。
戸惑いながらも小さく頷けば、エノキは一つ息を大きく吸って、吐いた。そして顔を上げ、語り始めた。
はい良く出来ました。
アナタはカカシ。では、私は?
――さあ、名前を呼んで。
「――カカシの母親のことを先ず話さなければいけませんね。
カカシの母親と出会ったのは、まだ私が何の力も無い大学生の頃でした。スゥエーデン人であった彼女は、
銀髪の美しい髪と、青い瞳の、とても綺麗な女でした。日本に小さい頃移住してきたそうです。
私は彼女に一目惚れをしました。…彼女はとても美しくて、優しくて…手に入れることが出来た時は、
これ程の幸福は無い、と心底思いました」
男はそこで言葉を切り、何処かに――恐らく出会った過去に、思いを飛ばしたようだった。
「…しかしその幸せも、長くは続きませんでした。私の家は…古い家で、外国人である彼女のことを
認めてはくれませんでした。そればかりか、他の女を無理矢理引き合わされ、私が家を取るか彼女を
取るか悩んでいる内に…彼女は姿を消しました。
私は胸が引き裂かれるようなショックを受けました。彼女のことを深く愛していたのに、
何も言わず姿を消した彼女を、私は『自分を捨てた』んだと思い込みました。私は彼女を恨み、諦め、
そうして家が選んだ女と結ばれました。
……でも違ったんです。彼女は…私のことを思って、姿を消したんです。そのことに気付いたのは、
彼女が死んでからでした…」
エノキは、今にも泣き出してしまいそうに潤んだ瞳を震わせた。
それを痛ましい気持ちで見つめていると、エノキはやがて顔を上げ、笑った。
「おっとすみません、自分の話になっていましたね。お恥ずかしい」
「いいえ、そんな…」
イルカはふるふると首を振った。掛けるべき言葉が見つからないのが歯痒かった。この人は、
本当に深くカカシの母親を愛していたのだ。
「…姿を消した時、彼女は子供を…カカシを身篭っていたんです。そして、一人で産み、育てていました。
けれども、病気で死んでしまいました。病気が重い状態で無理をしたようで、
それが祟って行き倒れになったようです。私の住む町で死体が発見され、ニュースになったのを知り、
身元不明であったその死体に、妙に胸騒ぎを覚えました。まさか、と。人違いであって欲しいと思いながら
確認に行き――しかしやはり彼女だったのです。彼女のことを忘れたことなどありませんでした。
だから彼女だと、すぐに分かってしまったのです」
姿を消したカカシの母親が、エノキの住む町に赴いたのは、やはりエノキに会いたくてだろう、
とイルカは思った。
死ぬ間際に、恋しい男に会いたかったのか。
しかしエノキは、少し違うことを告げた。
「私は彼女を手厚く葬り、そして彼女の足跡を辿りました。どうしてこんなことになったのか、
知りたかったのです。そのお陰で、カカシの存在を知りました。
発見した時は、カカシは酷い有様でした。衰弱が酷く、もう少し発見が遅ければ、死んでいる所でした。
必死に医療技術に縋り、何とか一命を取り留めることが出来はしましたが、
カカシはそれまでの記憶を失っていました。
精神的なものらしく、幼くして独りにされ衰弱していったことが余程精神にショックを与えたのだろうと。
無理も無い。医師の話では、心の傷が癒えれば記憶は戻るかもしれない、とのことでしたが、
私はそれ程に辛い記憶なら、戻らなくてもいいと思っていました。けれども……」
そこで、エノキは痛ましげに眉を寄せた。
そして真っ直ぐイルカを見つめ、懇願した。
「…どうかアナタから、あの子に教えてやって欲しい。私の話は聞こうとしないのです。カカシは私のことを、
とても恨んでいます。それは仕方の無いことですが…」
「…う、恨むだなんて…」
「いいえ、そうなんです。あの子の立場なら、それは当然のことです。けれども、
母親のことは許してやって欲しいのです。カカシは勘違いをしているのです。
それはとても悲しいこと…悲しく辛い勘違いをしているあの子が、とても不憫でならない。
カカシも、あの子の母親…――アリスも」
――…え…
イルカはあまりの衝撃に、息を止めた。
今、何と。
誰が、アリスと。
聞き返したいのに、声が出ない。脳が働かない。
「…アリスとは、私が愛した…、あの子の…カカシの母親の名です」
カカシは観覧車の中で話した。
母親のことは覚えていないと。顔も、その温もりも。
『母親のことは思い出せないけど、アリスのことを思い出したよ。昔、居たんだ確かに。
どうして忘れてたのかな…』
一体、どういうことなのだ。
「カカシはその後、日が経ち、順調に体が回復すると、少し母親のことを思い出したようでした。
けれどもそれはとても冷たい思い出でした。アナタが聞いた内容通りです。
アリスはカカシに触れようとしなかった。そして『似てない』と言われたことだけ、
鮮明に覚えていました。
カカシは、私と似てないから母親に愛されなかったと思っています。でも違うのです。
アリスがカカシを遠ざけたのは、理由があったのです」
「…理由…?」
「どうやら、カカシは自分に優しかった母を『アリス』、冷たくなったのを母親、
と別人に認識しているようですが、これは思うに、母親を愛していたとは思いたくない心が
そうさせているのでしょう。母親は自分に優しくしたことなどないと、愛されたことなどなかったと。
そうすれば、冷たくされても傷は浅い」
「…?」
イルカには、よく分からなかった。
エノキはすっかり冷めたコーヒーを啜った。
「考えてみて下さい。家を出ることの無かったカカシにとって、世界は母親一人きりだったのです。
ただでさえ、子供というものは母親しか居ない。先ず愛すのは母親です。…が、
その母親が自分を嫌ったとしたら? 冷たく、触れようとさえしなかったら?」
「……!」
その世界は、イルカの想像を超えた。
なんて世界だ。今までどうして深く考えが及ばなかったのだろうか。
「だからカカシは、母親を愛していたことを認められなかった。認めたくないから、
愛されていた記憶を消したままでいたのです。そんな優しい思い出があったら、
その後冷たくされた仕打ちが余計にきつく突き刺さる」
想像を超えた世界だが、イルカは想像し得る限りでさえ、心が震えて仕方なかった。喉元が熱く、
鼻の奥が痛む。
『…アンタ…アリスみたい』
そう言ったカカシに、自分は何をした。
キスされて、動揺してこんがらがって、誰かを自分にダブらせてそんなことするなんてとか、
腹立たしい気持ちや気恥ずかしさで、カカシを避けた。
カカシに背を向けたのだ。
「…しかし違うのです。アリスは、カカシを愛していました。死ぬまで」
どうして。どこが。
エノキは言い募るが、イルカはもう聞きたくないと思った。
そんな嘘。酷い話だ。エノキはアリスを愛しているから、そんなことを。
――そう思ったけれども。
「アリスと同じ職場で働いていた方を探し出し、話を聞きました。彼女は…結核を患っていたのですが」
「…結核…?」
「結核という病気だとは分からなかったようです。私がそうだと知っているのは、
死体を発見された時に死因を調べられていたので。彼女には、医者に診てもらおうにも身分照明も
保険証も持っていなかったので、病院には行けなかったそうです。
けれども、酷い病気だと、他人にも移るような病気かもしれないとは悟っていたと。だから彼女は、
愛していたカカシを遠ざけるしかなかった。家にもあまり居ないようにして…。
しかし近づく死期を悟った彼女は、残すカカシのことだけが気がかりだった。
その友人の方に零したそうです。『父親似だったら、引き取って育ててもらえたかもしれない』と。
…私達に、愛されたのかもしれないと…」
「…えっ…」
そんな。それでは。
「…彼女は、自分似のカカシを、自分の分身のようだと、この世で一番愛しいとよく言っていたそうです。
けれどもそういう事態になって…彼女は初めて自分に似てしまったことを恨んだ。私の家族に、
外国人である自分が疎まれたから…カカシもそうなるかもしれないと、そう思ったのです。また、
私との子であると信じてもらえないかもしれないと思った。
しかし死を目前にした彼女は、…アリスには、他に頼る所が無かった。だから、私の元を尋ねようとして…」
エノキはそこで、言葉を詰まらせた。
胸が熱くて痛い。
滲む視界には、エノキの目から零れ落ちる滴が映った。
「お願いです、管理人さん…、カカシに伝えて下さい、アリスは…お前の母親は、
お前を心から愛していたと…」
そうよ、よく出来ました! 私の名前はアリス。
全問正解よ、さあいらっしゃい。
抱きしめさせて。
――さすが私の愛しいぼうや――
(04.12.05up)