第十四話「ここを出ていく」
静かな、静かな時間が二人に訪れた。
胸を熱くさせたエノキの告白は、やがてその時間にゆっくりとイルカの内部にしみ込んでいき、
イルカの中で心が決まった。
イルカは、カカシに会いたいと思った。
エノキはそんなイルカをじっと見つめ、カップの中の既に温くなったコーヒーを飲み干すと席を
立った。
「…長居してしまい、申し訳ありませんでした」
「あ、いえ…」
イルカも慌てて立ち上がった。
部屋を出て行こうとしてドアノブに手を掛けたエノキは、近づくイルカを振り返ると優しく微笑んだ。
「…アナタのような方が居て、本当に良かった。ご迷惑をお掛けいたしますが…息子を、
どうぞよろしく頼みます」
「は、はいっ。あの、大したことは出来ませんが…はい」
照れて、もごもごと言うイルカにまた微笑んだエノキを見て、笑顔が似ている、と思った。
カカシに。
エノキが、ガチャリと音を立て、部屋を出た。その後をイルカが歩き、玄関口まで見送った。
靴を履いたエノキが立ち上がり、「では…」と頭を下げたと同時に、ガラガラッと玄関の戸が
大きな音を立て、カカシが姿を現した。
第十四話「ここを出ていく」
「カカシさん…」
カカシは、全身から怒りを発するような迫力で、イルカとエノキを睨むように見つめた。
「カカシ…」
話しかけようとしたエノキに、カカシは視線でそれを拒んだ。
こんなカカシは見たことが無く、イルカは戸惑った。
「…アンタの車が停まってたから…、…何しに来た」
「カカシ…」
「帰れ。もうここには二度と来るな…!」
カカシが剥き出しの敵意をエノキに、自分の父親に向けることを、イルカは『痛い』と感じた。
とても悲しくて、辛いことだった。
エノキがどうではなく、カカシが痛ましくて見ていられなかった。
「カカシさん、もう止めて下さい。エノキさんはアナタのお父さんでしょう? そんな…」
「…アンタ、この男から何を聞いた?」
「え…?」
「こいつが何言ったか知らないけど、こんな奴の言うことなんか何故聞く?
何故アンタがこんな奴を庇うんだ!」
カカシは、今度はイルカに向って敵意をぶつけた。イルカはショックで、
目を大きく開いてそんなカカシを見た。
「カカシ、この人にあたるのは止めなさい。お前がお世話になる方だから、
ご挨拶をさせてもらっていたんだ。これ以上ここに居るとお前の怒りに火をそそぐだけだから
もう帰ります、どうもすみませんでした」
イルカに向ってペコリと頭を下げ、本当に申し訳無さそうな顔をしたエノキは、
開かれていた玄関の戸から出て行った。慌てて、それを追おうとしたイルカを、
しかしカカシはイルカの腕を掴んで止めた。
「カカシさん」
「あんな奴とはもう二度と口を利くな」
「…カカシさん、どうか落ち着いて話を聞いて下さい。オレ、全部聞きました。
アナタのこと…アナタと、お母さんのことを…」
イルカが言うと、カカシはイルカの腕を掴む力を強めた。痛みにイルカは顔を顰めた。
「痛いです…、放して下さい」
カカシは、イルカの腕を放した。イルカはホッとしたが、カカシがくるりと背を向けて、
玄関の戸から出て行こうとするのを見て、思わずカカシの服の裾を掴んだ。
「ま、待って下さいっ、話を聞いて下さいっ!」
「…あんな奴の言うことを信じるなら、アンタと話はしたくない」
「どうしてそんな…、オレが一番信じているのはカカシさんです。だからカカシさん、
逃げないで話を聞いて下さいっ」
「アンタの言うことは信じない」
言われ、傷ついたイルカの力が少し怯んだ隙に、カカシはイルカの手を振り払った。
だが必死にイルカはカカシに追い縋った。今を逃せば、カカシはこの先、
自分に見向きもしないと思った。
「オレは…アナタに嘘なんて言いません、騙したり裏切ったり絶対しない。だから、
だから今だけでも話を聞いて下さい」
「…もういい。オレはここを出ていく」
カカシは、イルカに背を向けたまま、走り出した。イルカは「あ」と一瞬の間の後、
慌ててカカシを追いかけた。
「カカシさ…っ」
だが、通りに出ても、カカシの姿は見当たらなかった。
いつ頃から降り始めたのか。
カカシがバイト先の店から外に出ると、ザアアァ、と雨が降りしきっていた。
「くそっ」
時計は既に夜の12時を回っていた。
今日は女が執拗に引き止めるから、抜け出すことが出来なかった。
なんとかカカシは女を酔い潰れさせ、店を出たのが12時半。
時間が気になって仕方無かったのだが、電話をする余裕も無かった。
カカシはポケットから携帯を取り出し、電源を入れようとして…止まった。
何をしようとしているのだろうか。
自分は、あの下宿を飛び出してきたのだ。出ていくと言って。
まだ荷物が部屋にあるが、今夜は帰るつもりは無かった。なのに。
「……そーだった」
なのに、時計の針が進むと焦り、早く帰らなければと思ってしまっていた。
馬鹿みたいだ。
腹立たしくて、やりきれない思いが渦巻き、今日泊まる宛てを探すことを失念して行き先が
無いままだった。
カカシは未だ止む気配の見せない空を見上げ、溜息を吐いた。
傘も持っていないし、行く宛ても無いときて、途方に暮れる気分だった。
友人と呼べる存在も希薄なカカシには、突然押しかける先も無い。これでは、
何の為に早く仕事を終わらせたのか分からない。帰らなくてもいいのなら、最後までバイトをして、
そしたら夜も明けた頃合、そのまま控え室で寝ることも出来ただろう。
いや…そのまま、客の女と何処かへ行くことも出来たのだ。
カカシはそんな風に思いながらも、手の中にある携帯を、開けては閉じることを数回繰り返した。
雨音の他に、パチン、と開閉する時に出る音が響く。そんな風に遊ばせていた携帯を、
やがてカカシは電源を入れてみた。
「………」
真っ暗な中、それが光を放つ。
けれども暫くすると、それも消えてまた真っ暗になった。
何をしているのだろうか。
携帯をじっと眺めていたカカシは、またそれを閉じてポケットにしまった。
やがて、カカシは雨の中へと一歩踏み出した。
帰る場所が無い。
そんな風に思いながら、カカシの脳裏を記憶が掠めた。
子供の頃、言いつけを破って外に飛び出したことがあった。
もう時計を見ながら待っているのは嫌だった。
外は怖い、と聞かされていたが、カカシにとって始めてみる外の世界はどれも新鮮で、
目に映るもの全てに心を動かされた。
母親以外の人間を始めてみて、それは少し怖かった。たくさん、たくさんの人並みに出会うと、
カカシは怖くて、駆け出した。
走って走って、やがてそれも疲れて立ち止まれば、もう帰りたくなった。
帰りたい。
…けれども、帰る場所が分からなくなってしまった。
どこをどうやって来たのか分からなかった。
すると突然、世界はカカシにとって恐怖の存在となった。とにかく怖くて、何処に居ても怖くて、
必死に駆けた。家に帰りたい。…でも。
言いつけを破った自分を、母は怒っているかもしれない。そう思うと、帰るのも怖くなった。
雨に濡れながら、どうして今こんなことを思い出したのだろうかとカカシは思った。
ずっと忘れているべきだったことを、あの下宿に移ってから――イルカと出会ってから、
それらが少しずつ少しずつ、自分の脳を過ぎっていった。しかし今更、
こんなことを思い出した所で何にもならない。それなのにどうして。
あの日の自分は、結局どうなったのだろうか。
町を彷徨いながら、そして。
その先が靄が掛かったように思い出せない。
だが、あの部屋に戻ったのは確かなのだろう。自分が発見されたのがあの部屋だったのだから。
しかしもしかしたら、それはただの記憶違いかもしれない。もう、何が本当にあったことで
何が空想の中のことなのかハッキリしないのだから。
アリスが現実に居たのかどうかも、怪しいものだった。
あの父親は…母親を許してやって欲しいと何度も言った。
意味が分からなかった。許すも何も、恨んでなどいないのだから。それどころか、
殆ど覚えていない人を、今更どうするも無い話だ。
自分に似ていない男。
母親が唯一愛していたらしい、男。
下宿先に来ていることを車で知り、嫌な胸騒ぎに背中を押されて入っていくと、
そこに男はイルカと一緒に居た。あろうことか、イルカはあの男に気を許したようだった。
腹立たしくて、許せなかった。どうしようもなく。
下足で踏み躙られた気持ちとはこのことか。何を踏み躙られたのかは分からないが、
消えて居なくなればいいと思った。
どうして。どうしてこの男は。どうしてこんな男が。
『――似てないね。似てたら…』
愛されたかもしれないのに。
助けてもらった恩は確かにあるが、さりとてあのまま自分はくたばってしまってもよかったのだ。
むしろ。
どうして助けたりしたのだと、今は強く思う。
――どこに行けばいいのか分からない。
カカシは立ち止まった。
服は雨に濡れきって、中までびしょびしょになっていた。夜だから、流石に寒いと思った。
その時、ふと、音が雨に紛れて聞こえた。
まさかという思いで、懐を探って携帯を取り出せば、それが光を放ちながらメロディを奏でていた。
着信元は――イルカの携帯。
「………!」
カカシは戸惑い、暫くその携帯を手に見ているだけだった。メロディが、
必死にカカシに取れと訴えていた。
鳴り止まないメロディが、何十コール分も続く。
ドクドクと今度は心音がカカシの中で急かせ、カカシは漸く、その電話に出た。
ゆっくりと、耳元に携帯を持っていくと、そこから声がした。
「――カカシさんっ!? カカシさん、カカシさん、返事、して下さいっ」
「……――っ」
イルカの声がする。自分の名を呼んでいる。何度も、必死に。
「カカシさん、今、何処に、居るんで、すかっ? 答えて、下さい、カカシさんっ!」
不自然に声が途切れている。荒い息を吐き出しながら、自分を呼んでいた。
カカシは返事が出来なかった。
喉の奥が、咽せるように熱く、痛かったから。
カカシさん、カカシさんとなおもイルカは言い募る。
『――…カシ…、カカシ…っ、カカシ、何処っ』
すると、女の必死な呼び声が、反対側の耳から…否、記憶の底から響いた。
真っ暗闇に雨が降りしきる中、遠くに人影が過ぎる。
――あれは…
カカシは目を見開いて、それを凝視した。
そうだ。あれは、アリス。
あの日、必死に自分を探してくれた。
…いや、違う。
あれは…あのひとは……――
「…カカシさんっ!」
携帯と、自分の向こう側から呼び重なる声。
カカシは携帯を耳から外した。
「カカシさん!」
それでも聞こえるイルカの声。
何故ならば、イルカが自分に向って真っ直ぐ走ってくるからだ。
「…イル…」
ピシャン、と足元の水溜りを跳ねさせ、学生服のままのイルカがカカシに向って腕を広げた。
全身ずぶ濡れの二人の体が、重なって、崩れる。
「…っ!」
勢いに押され、イルカの身体を支えきれずにカカシは足元をふらつかせ、地面に倒れこんだ。
だけれども、イルカをしっかりと抱きとめて自分が下敷きになるようにした。
「……って」
受身は取ったがアスファルトは痛い。少し呻いたカカシの上に乗っかったイルカは、
顔を上げてカカシの顔を覗き込んだ。雨に濡れてぐしゃぐしゃの顔。
「…カカシ…さん」
いや、泣いているのだ。
声が震えている。
暖かい滴が、カカシの顔に落ちてきた。
「…っうーーっ、ぐ、ぅ」
イルカは歯を噛み締め、腕を振り上げてカカシの胸を叩いた。数度。力の篭らない握りこぶしで、
けれども十分に、カカシは胸を痛めた。
「………っ」
カカシは、イルカをぎゅっと、抱き締めた。
アリスの顔を、今はっきりと思い出した。
―――母さん…
あの日、こうして自分を抱き締めて、泣きじゃくっていた。
「う…っ、う、ひっ、…馬鹿ぁ、オレが、ど、な…っ」
胸の中、イルカが泣きじゃくりながら、カカシを詰った。
学生服のままのイルカ。もしかすると、あのままずっと自分を探していたのだろうか。
カカシはその愛おしさに、切なく胸を痛めた。そして、イルカを抱き締める腕に、更に力を込めた。
イルカはとても、暖かかった。
雨はいつしか、上がっていた。
(05.07.04up)