第十七話「ちょっとだけ」
「…ほら、コーヒー」
大学の助教授は、カカシの手前のテーブルに、少し温めのコーヒーの入ったカップを置いた。
カカシはどうも、と小さく頭を下げると、それを手にした。
昼下がりの大学、助教授の研究室に入ってカカシはこれまでのことを簡単に話した。
母親のこと。アリスのこと。
同一人物だったのだと、その話だけ。
全てを思い出したわけでも、まだ何かの説明をイルカから受けたわけでもない。
どうして母親が、態度を変えてしまったのか分からないままだ。
イルカは話を切り出そうとはせずに、ただカカシの傍に居た。そのゆったりとした暖かさに、
カカシは小さく胸に刺さった破片たちが、少しづつ、少しづつ剥がれ落ちていくのを感じていた。
父親のことをどう思うのかと尋ねられれば、未だに会いたくもなければ話をしたいとも思わない。
しかし、それは以前のような、どうしようもなく湧き上がる怒りとも憎しみともなる憎悪の念とは違った。
ただ、会いたくなかった。
それよりも今は、イルカの傍に居たかった。
「…ふぅん…、そうか。やはりな」
たどたどしいカカシの的を得ない話を聞き、助教授はコーヒーを啜りながら頷いた。
「…先生は分かってた?」
そんな助教授の態度に、カカシがそう尋ねてみると、助教授はニヤリと笑った。
「考え得る一つの可能性ではあった」
へぇ、とカカシは感心したように呟いた。
「そういえば先生、アリスは? 今日は居ないの?」
「あいつもそうそう暇じゃない。何せ今をときめく流行作家様だからな」
「……おい…火村。そういうことばっかり言うてると、今晩のメシは奢らんぞ」
するとそこで、助教授の友人が、研究室に入ってきた。
「凄いタイミングだな。ドアの前で計っていたのか?」
大げさに驚いて見せて、助教授が言った。
「アホ言え。オレが入ってくるの分かってたから、そないなこと言うたクセに」
少し前に電話で到着を告げ、靴音とドアの前の気配、
すりガラスに映るシルエットはドアの向かいに腰掛けた助教授からは丸見えだった、
これらのことから、助教授が友人の到着を認識できないはずはなかった。
「何で褒めてるのに怒るんだ? こういう場合、『デザートもお付けしましょうか?』だろう」
「じゃかましいわっ! お前が素直に褒めることなんか、
オレがノーベル文学賞を取るぐらいに無いわ」
「じゃあ一生無いということか」
人の悪い笑みを浮かべたままの助教授を睨みつけた友人は、
椅子に腰掛けてじっと二人のやり取りを見ていたカカシに目を向けた。
「こんな奴に奢るよりもカカシ君みたいなかわいい子に奢りたいわ。どうやカカシ君、
今晩食べに行かへんか」
友人は、カカシの隣りに腰を下ろして、笑いかけた。
「おいおい、ウチの生徒をナンパするなよ」
「じゃかましい」
「悪いけど…オレ、今晩は駄目。迎えに行かないといけないから」
また口での応酬を始めようとした二人に割り入るように、カカシが言った。
「何や迎えって」
「管理人さんさ、家庭教師なんかやってんだよね。それで」
「……? カカシ君がそのお迎え?」
何故だろうとは普通に思うことだ。
管理人は男の子。今は物騒な世の中だが、さりとて下宿生が迎えに行くというのは聞かない話だ。
しかし仲良くなってきているので、それもありなのかも、とも思った。何せ歳が近い、
友人のようなものだろうし。
それにしても、家庭教師までやっているとは、凄いなと火村もアリスも感心した。
「…そうです。だってその家庭教師先の奴、変なんだ。嫌な予感がするから」
すらすらと、アリスには話してしまうカカシだった。
「変って?」
「分かんないけど変。あいつに近づけちゃ駄目なんです」
「……?」
カカシは眉を寄せ、不機嫌気味な顔をして言った。
二人は分からないと首を傾げた。
十七話「ちょっとだけ」
イルカの説明によると、イルカが教えている小学生の名前はナルト。
小学六年生で、私立の有名中学を受験しようとしていた。
そのナルトという少年は、頭がいいかと言えば、イルカが初めて受け持つことになった春頃は、
お世辞にもいいとは言えない成績簿だった。
これがまた問題児らしく、学校の先生も手を焼くやんちゃ小僧で、
だから学校の先生からは倦厭されていた。
そんなナルトが何故中学受験を、というと、どうしてもその学校に入って、
再会を約束した友達に会いたいらしかった。それなら素直に勉強すればいいのに、というと、
学校の先生に倦厭されているナルトは、遊びで遅れた授業分を今更教えてくれるひとが居なかった。
ナルトの親は、母親は幼い頃に亡くし、父親は大会社の社長らしくて、
忙しく飛び回っている為に殆ど家に居なかった。だから、
兄であるカブトと二人であの家に暮らしている、とのことだった。
本当は、もっと奥深いものがその家庭にはあるらしいが、そこはイルカは口を開かなかった。
他人があまり突っ込んだ家庭の内情を語るのは良くないと、思ってのことだろう。カカシだって、
そんなものにはまるで興味が無かった。
ただ、カブトという男には、興味――というのも違うが、ともかく知っておきたかった。
知れたことといえば、ナルトの兄で、現在高校一年生だということだった。
「…じゃあそのカブトが勉強教えればいーのに」
イルカを迎えに来て、一緒に木の葉荘に帰る道中、カカシは面白く無さそうに言った。
まだ自分がナルトの家庭教師をしていることが気に入らないのだとイルカは思い、
こっそり息を吐いた。
「…ナルトは、カブトにあまり迷惑掛けたくないんですよ。あの子はそういうことを、
過剰なほどに気にするんです」
「ふぅん?」
「それに、オレにとっても、いいバイトなんですよ。短時間で高収入! ってね。ナルトは可愛いし、
いいところを紹介してもらえたなと感謝しています」
イルカは嬉しそうに笑った。
カカシはその顔を見てまた、キスがしたい、と思った。
言えば怒るので、カカシは代わりに腕を伸ばしてイルカを抱きしめた。
「わわっ」
突然の抱擁に、驚きはしつつもイルカは拒まなかった。
イルカは甘えているのだ、と言う。
その言葉の意味は、カカシにも分かった。
イルカは、カカシが自分を母親とダブらせている、と思っている。
そうなのだろうか。
だからこんなに、傍に居たいと思うのだろうか。
抱きしめたいと思うのだろうか。
だが、それではキスは?
「…あの、カカシさん」
「…ん?」
イルカの黒い髪に顔を埋めて、イルカの匂いを嗅いだ。イルカはとてもいい匂いがする。
同じシャンプーを使っているとは思えないぐらいに。
「夜とはいえ往来で何ですし、抱きつくなら木の葉荘に戻ってからにしてくれませんか?」
「…んー」
キスしたい。
またその欲求を強く抱きながらも、カカシはイルカを放した。
カカシが放すと、イルカはホッとしたように息をついた。そんなイルカを面白くない気持ちで見た。
「…明日なんですけど」
歩きながら、イルカが言い辛そうに話を切り出した。
「オレやっぱり…その、大学には…行けないです」
「何で?」
「だって…やっぱり駄目ですよ。オレ、部外者だし…きっと弓道部の方は気を悪くされます。
それにカカシさんが怒られてしまいます」
「そんなことないって。部自体は休みなんだから、自主練なんだしそんな来ないよ」
「でも…」
「ちょっとだけ。ね?」
強引なカカシに、イルカはやがてくすりと笑った。
「じゃあ…ちょっとだけ、お邪魔します」
カカシはホッとして、知らず小さく息を吐いた。
そして、またイルカを抱きしめたくなった。
その身体に触れたい。
「あ、もう着いちゃいましたね。やっぱり話しながらだと早く感じます」
木の葉荘があと数歩の距離で、イルカが言った。
「……」
「ただいま〜!」
イルカが明るく言いながら玄関の戸を開けると、青葉が玄関口に顔を覗かせた。お帰り、
と笑って告げる青葉に、イルカは嬉しそうに笑顔になった。
イルカの後から入ったカカシは、靴を脱ぎ終わると同時ぐらいに靴を脱いだイルカの手を引いて、
スタスタと管理人室へと向った。
「か、カカシさん?」
この後イルカは、風呂に入る。そしてその後には、たくさんの用事が溜まっているのを知っていた。
けれども。
部屋に入り、ドアを閉めると、電気も点けないままにカカシはイルカを抱き込んだ。
「ちょ、」
「帰ってからならいいって言った」
「言ったって……もう、どうしたんですか今日は」
そんな風に言いながらも、イルカはカカシの背に腕を回し、ぽんぽんとあやす様に叩いた。
子ども扱いだ。
彼の中で自分は、愛情に飢えた子供なのだ。
そんな風には、扱われたくなかった。
だけど、離せない。
それは、イルカが自分を受け止めてくれたからだろうか。
寂しいなんて、感じたことは無かったはずなのに。
温もりが気持ちいいと思う自分は、確かに飢えているのかもしれない。
――では、イルカに自分だけ見て欲しいと思うのは…?
イルカがカカシの背をあやす様に撫でる、その仕草に胸が痛んだ。
(05.08.29up)