十九話「ひっさしぶりだな!」
二人の背が遠くに見える頃に、そろそろ行くか、とカカシは立ち上がった。
部室に着き、荷物を置くと、カカシは一先ず弓道場へと向った。
この弓道部は、「部」などと付くのがおかしいぐらいに活動が活発ではない。
サークルレベルの活動でありながら、部室もあれば立派な弓道場まで整備されていた。
それは弓道部だけが特別なのではなく、大概のものが「部」として扱ってもらえている。
噂では、理事長の方針なのだとかいうのだが、国立大学なのに何故、と首を傾げるひとも少なくない。
だが生徒達は嬉しい限りだし、授業料等が増えることもないので、あまり問題視などはされなかった。
土曜や日曜は基本部活が休みの為に自習練となっていて、大抵紅とあと数人居るか居ないか。
今は大会前でも無いし、そう人など居ないと思っていた。
とりあえず、紅は居るだろう。
紅はとても真面目というか、負けず嫌いというか。一番にならないと気が済まないらしい。
目下ライバル視されているのは、実はカカシだった。
紅ならイルカを知っているし、大丈夫だろう。それに半日程度、
ひとりが混ざっていても誰だか分かるまい、とカカシは考えていた。
実際には、紅一人しか居なかった。
まだ、他の連中は休憩中とかだろうか。
「…あら、カカシじゃない。珍しいわね」
カカシに気付いた紅は、道着を着込んで髪を結い上げた格好で、胸当てを付けているところだった。
「まーね。今から管理人さんが来るけど、いいよね」
「…え?」
何のことか分からぬ様子で小首を傾げた紅に、一応断りを入れたとカカシは満足して
それ以上の説明を省いた。
そして、網の向こうにイルカの姿を見つけて、カカシは迎えに出た。
「あ、ちょ…っ、カカシ、あれ、おいっ待ってよ!」
同じくイルカの姿を見つけた紅がカカシの背に告げても、カカシは振り返りもしなかった。
「カカシさん!」
カカシの姿を見つけ、イルカはにこりと笑って駆け寄った。
胸の内に燻っていたむず痒いものに似た感覚が、身体中に広がっていく。
イルカはTシャツにGパンという軽装できていた。
それを見て、カカシはあることを思いついた。
「着替えよっか」
「え? あの、このままじゃ不味いですか?」
「ううん。でも着替えよ」
中学では体操服で部活の練習をしていたイルカは、何に着替えるのだろうと思った。
カカシは部室に連れて行き、自分のロッカーから道着を取り出して、イルカに与えた。
「それ着て」
「でもカカシさんが…」
「オレのもあるから」
カカシはもう一枚見せた。
過去に着たことはあるものの、数年前の試合の時ぐらいしかないイルカは、
どうやって袴を穿くのだっただろうかと躊躇った。カカシを見れば、
着衣を脱いで手早く道着を身に付けていった。
見よう見まねでイルカもたどたどしく着替えていくと、先に着替え終えたカカシが、
イルカの背後に立って、帯をきちんと結んでくれた。
「あ、すみません」
その後もカカシは、袴を手に取り、イルカの前方に回って言った。
「足上げて。ここに片足づつ入れて」
「は、はい」
イルカは言われるがまま、袴に足を通した。その後袴の紐を括ってくれた。
「あ…ありがとうございました」
他人に着替えさせられるのが少し照れ臭く感じて、イルカは少し頬を染めた。
一方、カカシは機嫌が良さそうだった。
「何か楽しいもんだね」
他人を着替えさせることの何処がだろうか、とその言葉にイルカは疑問を感じた。
真っ白の道衣の清潔感、なのにその胸元の合わせ目は何処か色気を孕んでいた。
いつもと違った雰囲気を醸すイルカの道着姿は思いの他カカシの気に召し、
やっぱり着せて良かったと満足した。
まじまじ、と道着姿のイルカを上から下まで存分に観賞したカカシは、
上機嫌なままイルカの手を引いて道場へ向った。
十九話「ひっさしぶりだな!」
「…あ、」
道場の中へ入り、一人立っていた紅に気付いて、イルカが声を発した。
「紅さん…でしたよね。こんにちは」
とても印象の強い美女だったので、イルカは覚えていた。ぺこりと頭を下げて挨拶をするイルカに、
紅は笑顔で応えた。
「こんにちは、イルカ君。覚えていてくれて嬉しいわ」
にっこりと笑って話しかけられ、イルカはドキドキとして赤くなった。紅のような整った美人には、
免疫というものが無かった。間近で見て、本当に綺麗なひとだなぁ、と思った。道着姿も凛々しくて、
女優さんかモデルさんのようだ。
「あ、あの…、すみません、オレ、部外者なのにこんな…」
「カカシが誘ったの?」
「はい…」
ちらり、と窺うように見つめるイルカに、紅はにこりとまた笑顔を返して安心させた。
弓と矢を取りに行ったカカシの元に紅は近づき、そっと背後から小声で言った。
「…これってどーゆうことぉ?」
「さっきことわったでしょ」
平然として応えるカカシに、紅は呆れた顔をした。
「あのねぇ……、まぁいいけどね、別に」
言いかけて、しかし紅は息を少し吐いて終わらせた。
別にイルカがここで弓道をかじった所で、紅はそれに対して別段腹は立たない。
今日は部活の日でもないし、以前は弓道をやっていた、とアスマにちらりと聞いていた。
雰囲気からして、興味本位というわけでもないだろう。
しかしこのカカシの態度はどうだろうか。
ことわったって、あれでか。
だけども、カカシが誰かを誘ったりするなど意外だった。更に相手はイルカで、
様子を見るとカカシが強引に誘ったように思えた。
一体全体、この二人に何があったのだろうか。
最初の頃は、管理人どころか木の葉荘が嫌で仕方ない、という顔をしていたこの男は、
それから暫く観察するに、段々と気に入っていったようだった。それどころか、
最近カカシは変わったと思う。具体的にどう、とは言い難いが、棘が薄れたような、
そんな印象を受けていた。
何が有ったのか、木の葉荘での暮らしに関係がありそうだとは思っていたが…。
今度アスマに聞いてみようと紅は思った。
紅が何を言いたいかなど一ミリも察せ無いカカシは、少しだけ首を傾げたものの、
さして気にした風もなく、イルカの元に向った。
軽く準備運動をして、カカシはイルカに弓と矢を渡した。
「えっもう?」
「そんな時間無いでしょ」
弓と矢を受け取ったイルカは、緊張しているようで、そして嬉しそうでもあった。
「わあ…、何だかとても、ドキドキします」
そして、遠くにある的場を見つめた。
「的場って、あんなに遠かったっけ…中学とじゃ違うのかな…。あ…でもオレ、
何かどう構えるのかとか、ちょっと忘れちゃいました」
緊張感もあって、そう言うと、カカシが弓だけイルカに持たせた。
背後に立ち、後ろからイルカの両手に自分の手を添える。
「こーやって、足広げて。…そう。腰をしっかりと」
耳元に、カカシの声が囁やくように告げられて、イルカは思わずぞくりとした。何て声だろう。
いい声だと思っていたが、耳元に告げられると、男なのにドキッとするぐらいだ。
女の人なんてひとたまりも無いんじゃないだろうか。更には腰を触られて、
気恥ずかしい気持ちになった。
カカシはカカシで、イルカに真剣に教えつつも、自分の前に立つイルカが小さく感じて、
白い道依から覗く合わせ目の胸元に、思わずドキリとした。そ
れにイルカがすっぽりと腕の中に収まりそうで、腰に置いた手を回してぎゅうと抱きしめたくなった。
イルカの髪から、いつものいい香りがする。
そこに、ビュン、と弓が撓る音がして、次にパァーンと的に弓が突き立つ少し鈍い音がした。
見れば紅だった。
それでカカシはハッとして、教えることのみに集中することが出来た。
イルカは、カカシに教えられた姿勢で弓を引き、丁度過去に何度も練習した感覚も相まって、
矢を放った。
カカシはそれを見ながら、中々に筋がいいと思った。
ゆるく放物線を描いた弓は、遠い的にパァーンと音を立てて突き立った。
「わあ…」
それは一番端ではあったが、久しぶりに放った矢が、的に当たったことにイルカは
最初驚いたように目を瞠っていたが、やがてみるみる顔を綻ばせていった。
「やるじゃないのイルカ君。それにカカシ、アンタがひとに教えることが出来たなんてね。
その調子で後輩の面倒も見てあげてよ。アンタが教えるとなったら、
喜んで練習に励む娘はいっぱい居るわよ」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべて言う紅に、カカシは眉を顰めて「嫌だ」と即答した。
「教えてくださぁいv」と猫撫で声でつきまとってくる女共を思い出し、
折角のいい気分を壊しやがってと恨めしく思った。
そう、とても気分がいい。
元々弓道が好きなのだが、それ以上に。
イルカが、嬉しそうだから。
いつも学生と管理人を頑張って、息抜く間も無いイルカ。
だから、ほんの少しだけでも、弓道をさせてやりたかった。
弓道の話をしている時のイルカは、とても楽しそうで、やりたそうだったから。
しかしそうしている内に、ガヤガヤと少し騒がしい気配がした。誰かがこちらに来るのだ。
そうして姿を現したのは、四人の男だった。それは弓道部の部員で、一年生ばかりだった。
「あら、来たのね」
紅はその四人に声を掛けると、元気よく挨拶の返事が返ってきた。
その四人はカカシにも挨拶をして、その傍に居るイルカを誰だろうと思っているようだった。
紅がそれに気付き、「体験入部希望者なの」と適当に誤魔化してくれていると、四人の内、
一人の男がイルカをじっと見て、やがて驚いた顔をした。
「…お前…イルカか…!?」
知り合いか、と思ってイルカの様子を見ると、イルカは怯えたような表情を見せた。
「……?」
こんな表情を見たのは初めてで、カカシはどうしたのだろうと戸惑った。
…いや…これに似た表情を見たことがある、と思い出した。
――背中の傷を見ようとした時だ。
あの時ほどではないにしろ、それに準じた表情。
相手は一年の、確か名は…ミズキといったはずだ。
しかしミズキは、にこやかに、嬉しそうな顔でイルカに語りかけた。
「ひっさしぶりだな! お前、急に引っ越すからどうしてんだろうとか思ってたよ。
お前もこの大学に入ってたのか。何学部なんだ?」
そのミズキの言葉に、紅も、そしてカカシも怪訝な顔をした。
…どういうことだ…?
「あ…」
イルカは動揺しているようで、一歩後ずさった。
そんな様子のイルカに、ミズキはやっと気付いたようだった。
「…何だよ? お前、もしかしてオレのこと忘れてたりする? ほら、ミズキだよ。
お前と幼馴染みの…」
「……っ」
ミズキが言い終わらぬ内に、イルカはその場から駆け出した。
(05.10.11up)