最終話「ひとつ屋根の下」
ぐすぐすと、鼻をすする音が客室に木霊する。
「…ライドウ…ほら、ちり紙」
隣りに腰掛けているゲンマは、机の下に置いてあったボックスティッシュを、泣いているライドウに
渡してやった。
「…おお…すまねぇ…っ」
ちーん、と思い切りかむ。
「……ひでぇよ…こんな話っ。そんなに頑張ってたのに…ひでぇ学校だよ…っ! 普通留年しないように、
学校ってのはあれこれ努力するもんじゃねーのかっ? 補習とかよぉ。そんな程度のことでよ。
…でもよ、オレなんて大学を三浪してんだぞ。留年なんてどーってことねぇよ、な!」
「それはイルカに言ってやれよ。…っていうか言うな。もう終わったことだし、それに…」
「…ん? 何だ?」
途中で言葉を切ったゲンマを、ライドウが訝しんで先を促した。ゲンマはチラリとオーナーに
視線を向けると、やがていいや、と首を振った。
「アイツは留年した。それだけの話さ」
「何だよお前、冷たいな」
「冷たいってね…まぁ…理由なんてどうでもいいんじゃない? ってこと」
そういう言い方をするゲンマに、変わらずライドウは不服そうだった。しかしもう、ゲンマは
そんなライドウにまともに取り合おうとはしなかった。
オーナーは、変わらずにこにこと笑っていた。
イルカは、自室の隅に置かれた、両親の位牌の前で正座していた。
まだ弓道着姿のままだ。
「……」
心底驚いた。まさかミズキに出会うだなんて、思ってもみなかった。
そして…カカシや紅にもきっと、自分が留年していることを知られたに違いない。
隠し通すつもりがなかったといえば、嘘になる。
別段留年したことを知られたくないわけではなかった。ただ…その前になる、
過去を知られたくなかった。
だからその過去に住む、ミズキとは会いたくなかったのだ。
背中の傷が疼いた気がして、そっと手を背中にまわそうとした時に、コンコン、
とドアをノックする音がした。
ハッとして振り返り、ドアを見つめてしかし声を出さずにいると、またノックする音がした。
少し逡巡したが、イルカは「はい」と返事して立ち上がった。
「…カカシ…さん」
ドアを開けると、そこにはカカシが居た。
カカシもイルカも互いに弓道着姿のままだった。
「…す、すみません、その…」
何て言っていいのか分らない、といった仕草で戸惑いながら俯くイルカの肩を押し、ずい、
とカカシが部屋の中に入ってきてドアを閉めた。
「カカシさん」
「さっき、オーナーから聞いた。アンタのこと」
「……!」
イルカは大きく目を開いた。
「ええと、肺炎起こして留年したって?」
しかしそう言うと、イルカはきょとんとして瞬いた。
「……え…?」
「……あれ、違う?」
「…い、いいえっ、そうです。オレ、留年したんです」
そのイルカの様子に、カカシはなるほど、とオーナーの話に対する違和感の正体を見た気がした。
恐らくは、半分本当にあったことで、半分は…嘘。
何処までがどうとかは分らない。しかし留年したことだけは本当のことだろう。
ということは、あの理由か。
オーナーの話には、何処にもイルカの背が傷つくような話は無かった。それもまだ小学生
だった頃というのなら別だが…イルカが『心の傷』を負ったのは、両親が死んでからとみて間違い無い。
しかしあれでいい、と思った。この傷に触れることが出来るのは、自分だけでありたい。
どうして隠したかは、イルカがあれほど隠したがっていることだからだ。そんなことまで
べらべらと話すような人物ではないらしい。
イルカが留年した、その事実に対して理由なんてどうでもいいことだ。皆に対しては。
けれども…。
イルカが不安げに見つめてくるので、カカシはふ、と思わず笑った。
「…やっぱりそうだ」
イルカをじっと見つめ、そしてそんなことを、妙にしみじみとした口調で言った。
「なんかね、分かっちゃった」
「……な…何が…?」
背中の傷痕。本当のワケ。
イルカのこと、全て知りたいと思う気持ち。
気になって仕方なくて、会いたくて仕方なくて。
触れたくなる、抱きしめたくなる、この気持ちの正体。
「―― オレね、アンタのこと、好きなんだ」
最終話「ひとつ屋根の下」
あまりに思いもよらなかったことを告げられて、イルカは目を見開いた。
ビックリしたとか、驚いたとか、その次元を上回るイルカとは違い、カカシは嬉しそうに笑った。
「好き。勿論母親とかそういうのは無しで。キスしたいし、…抱きしめたい」
「わっ」
カカシはぎゅっと、イルカを抱きしめた。
「こーいう気持ち、『好き』って言うんでしょ」
「…え…っと、その、…ええっ? そんな、だって…」
そんなことを言われたって。
大体にして、カカシは男で自分も男なのだ。そういう『好き』にはならない…と思うのだが。
でも、あんまりカカシが綺麗に笑うから、何だか言えなかった。
「アンタが辛かった話を聞いたらオレも辛くなった。気持ちがぐしゃぐしゃして、
こういうのって初めて。…アンタはね、オレのトクベツなの」
「……カカ…」
「ミズキと知り合いだったってだけでも嫌だった。オレの知らないアンタを知ってるってだけで
腹立った。だから全部知りたい。…全部、欲しい」
「…え…? ちょ、カカ…ッ」
カカシの顔が迫ってきて、カカシの怒涛のような告白に目を白黒させて、
身の置き所無く走り去りたいぐらいに恥ずかしいというか照れ臭いというかこっちだって
気持ちがぐしゃぐしゃであるものの、キスをしようとしていることは分かって、
イルカは顔を背けてそれを拒んだ。
すると、カカシはイルカの身体を畳の上に押し倒した。
「って! ちょ、カカシさん、落ち着いて下さいっ」
ドスンと音を立てたイルカの背中は痛く、呻きながらも圧し掛かるカカシを押しのけようとした。
ちょっと展開についていけないから、ともかく落ち着いて考える時間が欲しかった。
「…アンタは? オレのこと、好き?」
「ええっ? それは…その…」
いきなりそんなことを尋ねられたって。
答えに窮していると、カカシの顔がはじめて曇った。
「…嫌い?」
「いえ、それは無いですけど、でもっ、」
「でも?」
嫌いということはすぐに否定されて、カカシは少なからず喜んだ。
うー、と唸った後、イルカは息を吐いた。
「…その…オレ、今はそういうこと…考えられないです」
「……」
「オレ…正直な話、告白されたのって初めてで、戸惑っちゃって、でも嬉しいけど…、ごめんなさい。
今は大学受験に合格することしか考えられないし、考えたくないんです」
「……」
段々と顔を萎ませていったカカシだが、やがて口を開いた。
「…それって、オレ、振られたわけじゃ、ない?」
じいっと、縋るような目を自分に向けてくるカカシ。
捨てられるのを怯える子犬のようだとイルカは思った。
こんな風にカカシに見つめられて、それでも拒むことなど出来なかった。
「…は、はい…。その、だから大学に合格するまで、返事は待ってもらえたら…」
だから、こう返事してしまった。
すると、カカシはぎゅうぎゅうときつくイルカを抱きしめた。
「か、カカシさん、苦しい…っ」
「良かった。じゃあ、今はそれで許してあげる」
許してあげるって何だ、と思ったが、息苦しくてそれどころじゃなかった。
カカシは気が済んだのか、力を緩めてくれた。そしてこんなことを言った。
「じゃあ、キスはしていい?」
「…へ…っ?」
突然そんなことを言われて目が点になっているイルカに、構わずカカシはちゅっとキスをした。
「………」
呆然としてカカシを見上げるが、カカシはにこにことしたままだった。
「待ってるお駄賃ね」
そんなことを言って、また口付けた。
「…んっ」
キスをしている、と理解したイルカは、それから逃れようとしたが、
カカシの唇はイルカのそれを追いかけて、何度も重ね合わされた。
「……っ、は…」
漸く離された時には、イルカは酸欠で息をすることで精一杯だった。
はぁはぁ、と息を吐く。
そんなイルカを見下ろしていたカカシは、そろりとイルカの道着の胸元の合わせ目に
手を忍び込ませようとした。
「もうちょっと、先に進んでもいい?」
「…っ、て、駄目に決まってるでしょうっ!」
ヒヤリとした手の感触に、イルカは慌ててカカシの下から抜け出した。
先って何!?
よく分からないながらも怖かった。
カカシは、ちぇ、とつまらなそうに唇を尖らせながらも、それ以上はしようとしなかった。
残念ではあるが、無理矢理はしたくない。大事にしたいのだ、イルカを。
過去の話の中で、理由はどうであれ、イルカが深く傷ついたことは本当のことだ。
笑わなかったというイルカ。今のイルカからは想像も出来やしない。
なのに妙にリアルに伝わってきた。
だからカカシが思ったことは、もう絶対にイルカに辛い思いや悲しい思いをさせない、
ということだった。
イルカを守りたい。そう思った。
自分にとって、イルカが今やこれほど大切な存在なのだと知った。
だから、イルカを好きなのだと、遅まきながらも気付けたのだ。
身体を起こそうとしたカカシは、部屋の奥に置いていた、イルカの両親の位牌に気付いた。
つい、それに近づくと、背後からイルカの声がした。
「あ…それ、オレの両親なんです」
ちょっと、困ったようにイルカが笑った。
「たまに、出したりして…しまうんです。オレってまだまだ、駄目ですね」
「…どうして?」
何が駄目なのだろうか。
分からなくて問うと、イルカは後ろ頭を掻いて笑った。
「ちゃんとひとり立ちしないと駄目でしょう。両親にいつまでも心配掛けちゃ、
いけないと思うんです」
「……」
そういうものなのだろうか。
カカシには、分からなかったから何も言えなかった。
そして、イルカはああ、と思い出したかのように言った。
「そういえば…初めて会った時、オレ、カカシさんのこと殴っちゃいましたよね。
本当にすみませんでした。あれは…その、……泣いてたのを、見られちゃったんで…」
「……?」
「オレ、両親に誓ったんです。もう泣かないって。いつまでも泣いてたら、
父ちゃんも母ちゃんも心配で成仏できないだろうと思って。…ある日やっとそう誓えたんです」
自分の知らないイルカの過去が、また。
知れて嬉しいけど、辛くもある。
イルカが笑って言うから。
そんな顔で笑うから。
恐らく――オーナーが見た顔と同じ顔だろう。
あの日の、初めてイルカと出会った日のことが甦る。
大学の桜の木の下でイルカを見つけた時から、気になって仕方なかった。
あの時は、こんな感情をイルカに抱くなど、思いもしなかったけど。
それでもああやって、自分の心に影を残したのは、イルカが初めてだった。
「オレ…心配掛けないように、ちゃんと大学に行くことも誓ってたんだけど、それを果たせなくて、
あの日に…願掛けで伸ばしていた髪を切って、また頑張るつもりだったのに、つい…零れちゃって。
はは、みっともないですね。でもだからこそ…今度こそ、合格したいんです」
そう言って、イルカが笑う。
だから、カカシはイルカを引き寄せた。
「…っ!」
「…泣いていいよ」
イルカの顔を、ぎゅうと自分の胸に押し付けて、囁いた。
「……え…」
「オレがこーやって、見えないように隠してあげるから。だから、いいよ」
「………」
イルカの手が、カカシの脇の辺りの服をぎゅっと掴んだ。
「…別、に…そんな、オレ…泣きたくなんか…」
「いいよ。オレが許してあげる」
イルカが自分によくするように、背中を撫でた。
頑ななイルカの身体が震えた。
それでも声を殺しているイルカが、じわりと胸を締め付ける。
いつか、もっと普通に泣ければいいのに。
そりゃ泣いて欲しくなんかない、笑っていて欲しいけれども。
まだ知らないことはたくさんあるのだろう。
背中の傷だってそうだ。
けれども、今はもう十分だ。
こっちだって初めての感情を、少し持て余している。
ただ腕の中に居るひとが、愛しくてたまらない。
「…おーい、まだか?」
その時、ドアをノックする音と共に、アスマがドアの前で声を掛けてきた。
自分が、イルカを呼んでくる役を買って出、今まで大人しく皆は待っていたのだろうが、
もうちょっと後が良かった。気分が台無しだ。
しかし、もぞ、と腕の中で身じろいだイルカは、ごしごしとカカシの胸元に顔を擦り付けると、
やがてその顔を上げた。
「…行きましょうか」
そう言って、ちょっと照れ臭そうに笑った。
今度はイルカの本当の笑顔だった。
だから、カカシはまぁいいか、と思った。
そして、イルカにちゅ、とキスをすると、今度は頬を殴られた。
「…ってー」
「…もうっ、今度したら怒りますよっ!」
真っ赤になった顔で、イルカが怒鳴った。
けれどもそんな顔で言われても、可愛いとしか思えない。
「すみません、ちょっと着替えるのでもうちょっと待っててください! …ホラ、
カカシさん出て行ってくださいっ」
「何で?」
「何でって…っ」
そこでまた、イルカが赤くなった。
意識されているというのは、気分がいい。
もう前のように、子供扱いされないのだ。
だから、出て行ってあげようと、立ち上がった。
「…あ…そういえば、オレ、服を部室に置いたままです…」
「ああ、オレもだ。取りに行ってくる」
「オレも行きます」
「いいよ。オレが取ってきてあげる」
「…え…、でも…」
イルカは戸惑っているようだが、同時にちょっとホッとしているようでもあった。
ミズキと会いたくないからか。
こっちだって、会わせたくない。
「いいよ。駄賃に、またキスしてくれたらそれで」
「な…っ! いいですっ自分で取ってきますっ!」
「…あー、いい。駄賃もいらない」
どうしてか逆効果になってしまったので、訂正した。
「か、カカシ、さん」
出て行こうとするカカシを、イルカが引き止めた。
「その…ミズキには…オレのこと、何も言わないで欲しいんです…。
オレがここで管理人をしているとか…こ、高校の…こととか…」
何も教える気など無かったが、こんな風に乞われると、一体何があったのか今すぐ全部を晒させたくなる。
「ミズキとはどんな関係?」
それぐらいは尋ねてもいいだろうと思った。
「幼馴染です。それだけです」
勘繰るカカシに、イルカはすぐさまそう答えた。それ以上は聞かれたくない、という風に。
「……ふぅん」
一応、今のところは、それで納得してあげることにした。
しかし、出ていく間際。
ドアの前で見送るイルカに、掠めるようにキスをした。
「…っ」
顔中真っ赤のイルカに気分をよくしたカカシは、「やっぱりもらう」と言って笑い、
そして背を向けた。
「…っの馬鹿ヤローッ! 今度やったら絶っっ対、許さないっ!」
許さないなんて言ってるけど。
きっとイルカは許す。
そこにつけこんで、押し捲るつもりだ。
イルカが廊下に出てそう怒鳴ったから、その声を聞きつけて青葉が俊足の動きで廊下に出てきた。
本当はイルカの部屋にカカシが行くのを止めたかったのだが、涙が止まらなくて動けなかったのだ。
その後ろに、何だと野次馬根性でライドウとゲンマが続いて出てきた。
「はたけカカシッ、貴様何をした……ぶはーーっ!!」
青葉はイルカの道着姿をその眼に焼きつけ、盛大に鼻血を噴出して廊下に倒れた。
「…うわーっ、青葉さんっ!?」
イルカはその青葉の姿に驚き、慌ててティッシュを取りに部屋に戻った。
「…グッジョブ…はたけカカシ……ッ」
親指を立ててそう言うと、バタリと意識を失った。
その様を見届けたライドウは、真っ青になって震え上がった。
初めて見る変人さんだったらしい。
「まぁ、そのうち慣れるって」
そんなライドウの肩に手をぽんと置き、飄々としてゲンマが言った。
「な、慣れ…っ? いや慣れたくないぞこんなことっ」
変人さんに慣れる生活って何だ!? と、ライドウは木の葉荘に来たことをちょっと後悔しだした。
一方イルカの怒声を背に受けても気分良さそうにしていたカカシに、
一連の騒動を見守ったアスマがやれやれと溜息混じりに問うた。
「…何だ? イルカに何したんだ。で、何でお前はそんな気色悪いぐらい機嫌がいいんだ」
「…勿体無いから教えない」
「はぁ?」
訳が分からないというアスマを置いて、カカシは玄関を出た。
そして振り返る、木の葉荘。
「………」
ここでこれからも、イルカ達とひとつ屋根の下、暮らしていく。
木の葉荘の後ろに、青空が広がっていた。
やがてカカシは、駆け出した。
(05.11.22up)