ひとつ屋根の下2

第1話「あのひとは、オレのだから」





 もう、段々と肌寒さが増していき、いつの間にやら冬が間近に迫っていた。

 11月。
 雪など降りはしないものの、吐く息は白く夜風に揺られて流れていく。
 そろそろ、ストーブを出すべきか。コタツを出すべきか。
 まだ早いような、もう欲しいような。
 そんな季節。
 特に受験生になるイルカにとっては、追い詰められる季節でもあった。


「…そこ違う」
「え?」
「xはyの関数なんだから、ここに移行させて…」
「…あ、そうか」
 ゴシゴシと、消しゴムが紙を擦る音。
 そしてまた、すらすらとシャーペンの芯が紙の上を滑る音がする。

「…何やってんだ、お前」
 アスマは呆れた声音を出した。
 声だけじゃない。顔も呆れ果てた表情で、少し下方に視線をくれる。
 そのアスマの目の前、というか。
 …イルカの部屋の前、というかに、少し身を屈めて、戸に耳をくっつけている青葉は、アスマの出現に身を起こして戸から少し離れた。
 ゴホン、と小さく咳払い。
「いや…イルカが頑張ってるからな、差し入れをと思って」
「どれを?」
 青葉の近辺には、それらしいものは見当たらなかった。
「…さっき持って入った…」
「……」
 もう入室すべき手駒は無くなっていたらしい。
「……」
 両者、互いに暫し無言だった。
 アスマは、嫌なものを見付けてしまったと後悔した。台所へと茶を汲みに来て、たまたま通りかかっただけなのだ。
 ハッキリ言って、青葉のイルカへの執心具合は恐ろしいものがあるが、それだって個人の趣味(?)なのだから、犯罪行為に至らない限りはアスマにはとやかく言うつもりはない。
 …そう。だから、アスマは青葉に告げた。
「…行くぞ」
 盗聴は、立派な犯罪行為だった。
 青葉は無言のまま、アスマの後に続いた。


「…できました、カカシさん」
 イルカは必死に難問を解き、顔を上げた。
「ん…? ああ」
 それで、イルカではないものに意識を働かせていたらしいカカシは、イルカに戻したようだった。
「…疲れましたか?」
 気もそぞろな様子のカカシに、イルカが申し訳なさそうな顔で尋ねた。そして、チラリと壁時計を見た。
「あ」
 時計の針は、夜九時を回った。
 カカシの授業時間を過ぎてしまっていることに気付いた。
 最後の問題が中々解けず、熱中してしまっていて気付かなかった。
「す、すみません」
「何が? はい、正解」
 イルカが詫びると、じっとイルカの解答に目を走らせていたカカシは、赤ペンで大きく丸をうった。
「わあ」
 イルカはあの計算式で合っていたのだと、嬉しくて顔を綻ばせた。
「じゃあ、邪魔者も居なくなったことだし、終わろっか」
「え? ええ、はい」
 邪魔者の意味が分からなかったが、これで終了ということに何ら不満はない。
 カカシは、イルカの勉強を見てくれていた。
 数学と英語。週に四回。
 そのどちらも、カカシは教えるのが、意外なぐらい上手かった。
 ここの下宿生は、皆木の葉大学生なので頭がいい。だが、頭がいいというのと、教えるのが上手い、というのは違う。
 これなら、家庭教師や塾の講師などやれば、とても人気がでるに違いない。しかしカカシには、そんな気は全く無いらしく、いわばイルカには特別に教えてくれていた。
 それはとてもありがたいことだった。
 だが。

「…じゃ、今週のご褒美ちょうだい」

 カカシはそう言って、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
 イルカの頬が、朱に染まった。
 この、「週末のご褒美」が無ければ。
「…あ、あの、さっき青葉さんが差し入れてくれたお菓子を…お茶も冷めてしまいますし」
「そんなの後。オレがこれをどれだけ楽しみにしているか知ってるクセに」
 赤くなって動かないイルカに、カカシはのそりと近付いた。
 カカシの手がイルカの肩に置かれると、分かってはいてもつい条件反射のように、イルカの身体がピクリと揺れた。
 ゆっくりと、カカシの顔が近づいてくる。その端整な顔を見つめ続けることができずに、イルカは視線を外した。それでも、カカシの顔が近づくのは分かった。
 吐息を感じて、次に、唇に柔らかな感触。
 イルカはそれから開放されるのを、歯を食いしばって待った。息だって止まっている。何度やったって、慣れやしない。
 …というわけでもなく。
「ん…っ?」
 唇を塞がれたまま、イルカは畳の上にゆっくりと身体を横たえさせられた。
 いつもは、軽く重なる程度だった。それが。
 イルカの上に乗っかるカカシは、イルカの頭を片手で押さえ、もう片方の手でカカシを押し返そうとするイルカの右手を握りこんだ。
「…やめ…っ」
 イルカは必死に身体を捩って、その拍子にすぐ傍にあった机の脚に当たってガタンと音がした。
 それでやっと、カカシはイルカの身体から身を起こした。
 イルカが濡れた唇に残る感触を、手の甲で拭うと、カカシは眉を下げた。
「そういうのって、傷つく」
「…か…っ、カカシさんがっ」
「ハイハイ。ごめん、つい」
 全然悪びれた風もなくそう侘びを口にすると、カカシはすっくと立ち上がった。
「じゃ、また」
「あ…、青葉さんの差し入れは…」
 カカシは、冷めた茶を少し口に含み、差し入れされた菓子をひとつ掴んだ。
「じゃね」
 そして再び、出ていこうとする。イルカは今度は引き止めるようなことは言わなかった。
「…はい…。ありがとうございました」
 カカシがイルカの部屋を出て行き、戸を閉める音の少し後に、イルカは息を吐き出した。 そして、唇を指で辿る。
(何だか…エスカレートしてきている)
 イルカには、勿論のことだが、予備校などに通うお金なんて無いし、家庭教師など更に無理な話だ。しかし、イルカが何としても受かりたいと熱望する、カカシ達が通う木の葉大学は超名門。難関中の難関だ。とても高校の授業だけでは入れそうに無い。
 それでもイルカなりに、必死にバイトや今は下宿の管理人としての職務時間の合間に勉強してきたし、夏辺りから新聞配達のバイトも流石に辞めたが、限界というものはある。やはり、勉強のできるひとに教えてもらう方が断然いい。
 カカシは、勉強を教える見返りとして、とんでもないことに、キスを要求した。
 タダで教えてもらうのも申し訳なくあるが、だからといってそんな要求を飲めるはずもなかったイルカは、他を当たってみた。 だが、アスマとゲンマはバイトに忙しいので頼み辛くて言えなかった。 青葉は快く引き受けてくれたが、 いかんせん何処ぞの教授相手にするかのような難しい言葉の羅列に根を上げ、 ライドウは何故か恐怖に引き攣った顔で青ざめながら、 頼もうとするイルカに機械のようにブンブンと首を振るだけだった。 カカシが裏で脅していたことは、イルカには知る由も無い。
「本当はもっと先のこともしたいんだけど、アンタが合格するまで我慢してあげてるんだから、 それぐらいいいでしょ」とカカシは言った。一体どんな言い草だ。
 大体キスより先のことなど… イルカには恐ろしくてそれが何かは考えないようにした。
 しかし。

「キスなんて、もう何度もしてるじゃないの」
「これさえもダメなら我慢するのやめる」

 …なんて、脅しなのか何なのか、カカシが何度もしつこく言ってきて、イルカもつい、 「キスより先」という未知への恐怖と、そしてカカシが本気で言っていると分かるので恐ろしく、 それだったらキスなんて確かにもうしちゃってる(というかされている) し、減る物でもないし、と半ば自棄気味にカカシにお願いすることにした。
 これで教えるのが下手だったら、無しにしようと思っていると、意外なほどに分かりやすく教えてくれて、イルカはぐんぐんと学力がアップするのが自分で分かった。
 だから、こんなこと。
 週末に、軽く一度だけ、なんて。
 冷静に考えれば、どうしてこんな条件を飲んだのだろうと思うのに、それでも未だに続いてしまっている。
 正直な所、カカシとのキスは、嫌ではない。
 最初は何も考えられないぐらいになっていたのに、何度もするうちに、このキスという行為が気持ちい…
「…っだーーーっ!」
 そんな思考を打ち消すように、イルカは大声を上げて立ち上がった。
「ふ…風呂っ…はもう入ったから…そうだ、台所の片付けっ」
 皆より先に入らねばならない風呂は、カカシの授業のある日は台所の片づけを後回しにして、先に風呂に入っていた。
 イルカは台所に向かい、流しに漬けてある食器を、少し乱暴な動きで洗っていった。
 しゃかしゃかと手早く動かすスポンジに、つい力を込めた時に、ぷかり、 と浮いた小さなシャボン玉が、イルカの赤い頬に触れて、パチンと破裂した。




ひとつ屋根の下2 第1話「あのひとは、オレのだから」





「…アンタとイルカ君がそんなことになってたなんてねぇ…」

 カカシの目の前に腰掛ける紅は、うどんの麺をすすりながら溜息混じりに呟いた。
 イルカ手製の弁当を黙々と食べていたカカシは、ふい、と顔を上げた。
「何が?」
「…見たのよ。大学のハロウィン祭の時に…アンタ、イルカ君を連れて何処行くんだろうと思って追いかけてみたら…よもやチューシーンを眼にすることになるなんて、夢にも思わなかったわ」
 ああ、あの時のことか、とカカシは分かった。

 木の葉大学で行われるイベントの中でも、大学祭の次に大きなイベントと言われているのが、名物ハロウィン祭だ。これは大学側からではなく、学生が自分達で企画して開いたのが始まりで、今や年中行事となっていた。
 そこに、カカシはイルカを仮装させて侵入させた。試験勉強で息をつく間もないイルカに息抜きさせる為と、自分が楽しむ為だ。
 元々仮装パーティなのだし、外部の者が学生の手引きで入っても、誰にも分かるものではないし、結構皆やっていることだ。
 紅もノリノリで、イルカの仮装をプロデュースしたのも彼女だ。
 しかし、カカシの思惑とは裏腹に、女装のような格好に仮装したイルカを、女と勘違いしてナンパな声を掛けてくる奴等が居た為に、カカシの機嫌は急降下した。そんなカカシは、イルカをパーティ会場となった体育館から連れ出した。そこでまぁ、イルカにキスをして、落ちとしてはまた殴られてしまったわけだが。

 その一連を、この女に見られてしまっていたのか、と知ったが、さりとてそれで慌てたり誤魔化そうとしたりするようなカカシではなかった。
「そう。あのひとは、オレのだから」
 それどころか、まだ恋人の座に収まらせてもらっていないくせに、平然と誤解を進行させる。
「アスマのヤツ…このことも黙ってやがった」
 イルカという管理人の存在を教えてもらっていなかった、というのが始まりで、アスマから色んな情報を聞くことなく、こういう周囲から知ってしまうということに、紅は少なからず面白く無いものを感じていた。
「アスマは知らないもん」
「…あら、そうなの?」
 ふうん、と。
 アスマが知らないことを自分が先に知ったということに、紅は優越感に似たものを感じて機嫌良くなった。
「…ん? 待てよ」
 アスマは知らない。そして、アスマはそれなりにイルカのことを大事に思っていたはずだ。兄弟に似たような感覚で。
 そのアスマが、この誰もが認める変人とイルカができちゃってるなんてことを知ったら、どうなるか…。
「……他には誰が知ってるの?」
「紅だけじゃない?」
 どうでもいいことのように、カカシが言った。
「…とりあえず、今のところはバレないようにしてて」
「ん? …ま、どーでもいいけど」
 紅は、ふうと息を吐いた。
 イルカはこれから大事な時期だ。事が表立ってしまうと、恐らくもめるに違いない。アスマは絶叫するとまではいかなくても慌てふためくかもしれないし、何より青葉がどうなることやら、と、木の葉荘をよく知る紅は思った。入試が終わるまでは、平穏なままで過ごさせてやりたい。
 しかし、こんな男をねえ…と、紅はカカシをまじまじと見た。弁当を無心に貪る姿は、可愛いと言えなくもなく、それに最近丸くなってはきたけれど、相変わらずよく分からない男だ。きっと苦労するだろうに。
 だが、イルカが決めたのならば、それでいいかと、紅は麺のもう無い残りスープを、 惜しげに数度箸ですくった。



(06.06.11up)