第五話「見ないで下さい」
夕食を終えたカカシは、ごろんと部屋のベッドに寝転んでいた。
畳の間に備え付けられているベッド。どんなセンスだか分からないが、ベッドに慣れて
いたカカシには良かった。
さてこれから何をしようと思えば、なにやら眠たい気がした。
今夜は特別することが無い。こういう日は早く寝ようと、むくりとカカシはベッドから
起き上がり、着替えを持って階段を降りた。
この木の葉荘の風呂場は広い。
銭湯ほどとはいわないが、三畳分ほどの四角い湯船と、五人くらいで利用出来る洗い場が
ある。下宿で住まわせている人間の数が四人だけなのに、勿体無い広さだ。
そういえば、二階や一階には、使われていない部屋が四部屋ほどある。これ以上募集
する気が無いというから、何の為の部屋なのか分からない。
――そんな風に現状分析をした後、まぁ自分には関係ないと思い、脱衣所のドアを開けた。
脱衣所に入ると、風呂場の明かりが点いていた。ザアァ、とシャワー音もする。
「……」
見れば脱衣所の籠に、着衣が入っているものがあった。そうか誰か先に入っているのだな、
と知れたが、あの広さだから二人でも困ることは無いと、カカシは服を脱いで、
浴室の扉をガラガラと開けた。
「――…え?」
もくもくと立つ湯気の中、背を向ける格好で洗い場の風呂椅子に腰を下ろしていた人影が、
音に反応して顔だけ振り向いた。
それはイルカだった。
カカシと目が会うと、イルカは最初少し驚いた顔をして目を見開き、やがてその目が
キッときつくなった。そして後ろ手に手探りで桶を探しながら、詰問するような口調で
問うてきた。
「…アナタは一体、誰ですか…っ!?」
そう言われて、カカシは自分の今の姿を思い返した。
風呂に入るのに、カラーコンタクトも鬘も外していた。
「カカシだけど」
名乗ると、イルカはぽかんとした後、ハッとした顔をしてぶるぶると首を振り、
上から下へ、じーっとカカシの全身に視線をめぐらせた。その視線がとある場所にいくと、
真っ赤になって顔を背けた。
「かっカカシさんっ!? だだだって、髪が…目が…っ! 外国人みたいですっ」
「ああ、そう見えるらしいからカラーコンタクト付けて、鬘被ってんの」
「え…」
イルカは背けた顔を戻した。カカシは平然とした顔のまま、驚き戸惑ったような顔をした
イルカの前にしゃがみ込んで、顔をぐっと近づけた。
「コレが本当の俺の姿。色々と説明するのが面倒だから、普段はそうしている」
「……そう…なんですか…」
イルカはぼうっとしたまま、本当に納得したのか怪しい様子で口だけそう告げた。
そしてまたじっとカカシを見つめる。その真っ黒な瞳の中には、驚きはあるものの、
畏怖も侮蔑も好奇心も無い。カカシがそんなイルカを見つめ返していると、漸くイルカは
覚めたように、瞬きをして次には申し訳無さそうに眉を下げた。
「すみません、俺、知らなかったとはいえ失礼な態度を取りました」
「別に。じゃあま、そういうことで」
はい、と頷くイルカの横にある洗い場の風呂椅子に腰掛け、蛇口から湯を出し桶に溜めて
いくカカシを、暫く見ていたイルカは、急にまた驚いた顔をした。
そして、
「…ッギャーーーーッ!!」
――と言う奇声が浴室に響き渡った。
第五話「見ないで下さい」
この声で誰も覗きに来なかったということは、この浴室の防音はしっかりしているらしい。
しかし近場で聞いたカカシは、暫く耳の奥がキーンキーンと鳴り響いて、頭を痛めた。
ただでさえ密室で浴室、よく声が響き渡る所だ。
そんな声を出したイルカは、慌ててバッチャーンッとこれまた大きな水音を立て、
湯船に飛び込んだ。
「……」
その態度に、今度は一体何なんだとカカシは思った。
イルカは湯船にざっぷりと浸かりながら、首から上だけ出して、腰掛けたカカシに向って
慌てた声で言った。
「カッカカシさんっ! 時間っ、ま、まだでしょう!?」
「…え?」
「入浴時間ですっ! 下宿者の方は、夜の九時から十二時までって取り決めでしたよ!」
「…ああ」
何のことか合点のいったカカシは、そうだったと思い出した。部屋を出た時の正確な時間
は覚えてないが、まだ九時にはなっていなかったと思う。
けれどもちゃんと湯船も出来ているし、そんな怒るようなことなのだろうか。規律を
乱したとかそういうことを怒っているのだろうか。
「あー…でももう入っちゃったし…」
頭をガシガシと掻きながら言うと、怒ったような困ったような顔でイルカが言った。
「駄目です、出て下さい」
「……は?」
「お、俺もう出ますから…、そしたら、また入って下さいっ」
意外だった。
てっきり、仕方ない、という展開になると思っていたのに。これはあれか、けじめがどう
とかいうことなのだろうか。
「いやまぁ、規則破ったのは悪いんだろうけど…、次からは気を付けるし、ここまできて
今更出て行けなんて言わないでくれるとありがたいんだけど」
「……」
イルカは黙って、困ったように眉を寄せた。
「…それじゃあ、向こう向いておいてくれますか…? 俺、その間に出ますから」
そして少ししてから出したその返答に、カカシは訝しんだ。
さっきからのイルカの態度は、総じて自分の身体を見られたくないといっているように
思えた。男同士で、どうして隠す必要があるのか。
そこでカカシはある考えにハッとした。
……もしかして…女?
いやそんなまさか。しかしそう考えたら合点がいく。
だが、声も体つきも男のものと思えたし…。
先程の後姿を思い返したが、湯気で不鮮明だったし、意識して見ていなかったからよく
分からなかった。
「…いいですよ。さ、どうぞ」
カカシはそう言い、くるりと身体を反転させた。
ホッとしたような吐息が聞こえたかと思えば、ザバッと湯船から身体を起こす音がした。
そのまま、タイルの上をパチャッと足音を立て、駆けだそうとした所を――
…カカシは振り向いた。
「…っ!?」
カカシの行動に驚き、イルカは思わず足を滑らしてしまった。
つるりとタイルの上を滑り、そのまま頭からこけそうになった身体を、何とかカカシが
抱きとめた。
「わぁっ!!」
「…っとと、危ないなぁ、風呂場を走っちゃ駄目でしょ」
勢いがついていたものの、カカシも伊達に弓道で鍛えてはいない。意外に逞しい腕は、
イルカをしっかりと抱きとめ、カカシはふう、と息を吐いた。
「ひっ、酷いっ! カカシさん、俺を騙しましたねっ!」
余程驚いたのかショックだったのか、涙目でカカシを睨みつけてイルカが怒鳴った。
重なったイルカの胸は、ドクドクドクと心音が速いままだ。
カカシはその胸元をそっと見下ろした。感触通り、ふくよかな女性の胸はそこには無く、
男らしいすっきりとした胸板があった。
(下半身見なくても、やっぱり男だな)
疑問が1つ解決したことに、カカシは良かったと思った。けれどもイルカは俄然怒った
ままで、カカシを睨んでいた。
「えーと…ま、…ごめん」
面倒だなぁと思ったカカシは、こういった場合素直に謝るのが一番楽だと知っていた。
そして何気に、抱きとめていた手を、イルカの背中に滑らすと、イルカは身体を大きく
跳ねさせた。まるで凄い痛みが走ったように。
「あれ、怪我してるの?」
カカシはイルカの身体をぐっと自身にひっつけさせ、その背中を肩越しに見ようとした。
すると、そのカカシの行動に、イルカが急に暴れだした。
「嫌だっ、見ないで下さい!」
必死に身体を捩って、カカシの腕から逃げ出そうとするイルカを、カカシはむきになった
かのように強引に腕の力で押さえつけ、その背を見下ろした。
するとそこには、いくつもの傷痕があった。
今ついたようなものではなく、何年か前の古傷…と思われた。それは切り傷のような
傷痕ではなかった。もっと別の…
「……っ」
そんな風に検分していると、腕の中のイルカの身体が震えだした。背にやっていた顔を
戻し、イルカを覗き込むと、唇を噛み、目をぎゅっと瞑って、痛みを堪えるような表情
だった。顔色も青ざめている。そんな顔でぷるぷると震えられ、カカシはらしくもなく
動揺した。
「まだ痛むの?」
尋ねても、イルカはそのまま目を瞑り、震えていた。
どうしようか、とカカシは悩み、咄嗟に思いついたことがあった。
カカシはイルカの、前髪の生え際より少し上辺りの髪に、唇を押し付けた。
「大丈夫。痛くない」
そう、おまじないのようにカカシはイルカに囁きかけた。
イルカは震えながらでも、ぎゅっと閉じられていた瞼を開けた。濡れた黒い瞳が、
カカシを映し出し、瞬きをする。まだ眉根を寄せて、不安げな表情のイルカに、
カカシは今度はこめかみにキスをした。
「……」
「ね、もう痛くない。でしょ?」
イルカはぼうっとした表情でカカシを見つめ返し、ふっと、身体を弛緩させた。
カカシの腕の中で、震えを解いて、もたれ掛かるようにするイルカに、カカシは知らず、
安堵の息を吐いた。
「……もう…痛く無いです…」
小さく、イルカが告げた。
「そう、痛く無いなら良かった」
言いながら、カカシはイルカの身体を離した。
イルカが何か、縋るような眼差しを向けたように思えた。え、と思った時には、
イルカはするりと脇を抜け、浴室を出た。
ピシャン、と扉を閉める音を聞き、カカシは何だったのだろうか、と不思議に思った。
背中を隠し、見られたくないと暴れ、痛みを堪えるような表情をして、そして最後に…。
暫し先程のイルカを思い返していたカカシは、やがてガシガシと頭を掻き、先ほど腰掛けて
いた風呂椅子に再び座り、頭から桶に溜めた湯を被った。
イライラする。
折角イルカの謎を1つ解明できたと思ったのに。
また、新たに増えてしまったような気がした。
そしてイルカに取ったあの行動。咄嗟に出たまじないのような言葉。
覚えが有る。ぼんやりと遠くに、おぼろげに。
『――…ね、もう痛くない』
ふと、そんな女の声が聞こえた気がした。
誰の声だったか。覚えが無い。いや、無いはずも無いのに…思い出せない。
カカシは低く唸って、今度はシャワーのノズルを回し、頭から浴びて髪をかき回した。
(04.06.25up)