第七話「何だって」
女の甲高い笑い声と、男のサービストークが聞こえる会話の大半を占める。
そんなホストクラブで、カカシはホストのバイトをしていた。
週に三度ほど。鬘とカラーコンタクトを外し、外国人留学生を装っていた。
身元も明かさない。それが畠家との決め事だった。
そこでは、カカシはNo.2だった。別に喋りが上手いわけでもない、
むしろあまり話さないのだが、そこがいいという女は結構居る。いつか落としてみせると
意気込んで、カカシが店に入る日は必ず来る女も居た。だが、大抵惨敗に終わる。
クラブはもっとカカシに入って欲しがったが、カカシは疲れるので嫌だった。ただ、
金になるので続けていた。
特に今の下宿に住んでからは、門限が出来てしまった為、日をまたぐ前に帰らなければ
ならない。カカシは律儀にも、それを守っていた。
何故なら、イルカが。
夜のバイトと告げると、急に心配そうな顔で、玄関まで見送り、
「絶対帰って来て下さいね!」と何度も念押しするのだ。片手に大きな時計を持って。
帰って来たら帰って来たで、玄関で正座して待っている。大きな時計を持って。
そんな姿を初回で見せられ、げんなりとするものがあったが、今日で数回目、
今までちゃんと門限前に帰って来ていた。こんな仕事上、かなり無理があるのだが、
カカシの人気のお陰で今のところ首が繋がっている。
今時、世間の親でもあんなことはしないのじゃないだろうか。
しかしイルカに子犬のような顔で見上げられると、結局文句を言えなかった。
それとも。
――『心の傷痕』に、触れてしまった負い目もあるのだろうか。
負い目など感じる心があったのか疑問だが、今日もカカシは時計を気にして、
相手する女には殆ど意識がいってなかった。
時計を持って自分を待つイルカ。
玄関を開けると、寄っていた眉が一瞬で解け、とても嬉しそうな顔で「お帰りなさい!」
と言う。その姿を、思い返していた。
「――あ、お帰りなさい!」
ガラリと玄関の戸を開くと、いつものようにイルカがそこで待っていた。にっこりと笑い、
立ち上がる。時間は十一時五十分。ギリギリといった感じだ。
「…ただいま」
…という挨拶をすることを、最近覚えこまされた。
イルカは安堵の息をつき、にこにこと笑った。そうされると、カカシは不思議な感覚に
とらわれるのだった。
それじゃあ、おやすみなさいと告げ、イルカは自室へと去って行った。カカシも早く
風呂に入って寝ようと、階段を上った。
風呂は十二時までだから、あまり長湯は出来ない。元々烏の行水だったカカシは、
ざっと湯を身体にかけ、浴槽に浸かった。ふう、と息をつく。今日も疲れた。
イルカの両親は、真夜中に事故で死んだそうだ。
だからイルカは、これほどに心配をするのだろう、とアスマが教えた。
そして、心配されていると思うと、妙に胸が騒ぐ。過去のぶり返しが起きそうになる。
いつものようにぼやけたまま晴れない面影が過ぎり、カカシは頭を掻いて風呂から出た。
階段を上ると、そこには青葉が腕を組んで立っていた。カカシは一瞥しただけで、
通り過ぎようとすると、青葉が声を掛けてきた。
「お前、携帯ぐらい持てよ。そしたら、イルカだってこんな心配せずに寝てられるし、
門限の延長だってしてもらえるのに」
「…やだ。面倒臭い」
アスマなどにもよく言われたが、カカシは携帯を持とうとしなかった。いつでも
掴まえられる状態というのは、鬱陶しい。メールだってしたくない。
「…ったく」
青葉は息を吐いた。
イルカのことになると、青葉は五月蝿い。
カカシは、話は終わったとばかりに、そのまま自室に入った。
そのままベッドに横になったが、何とも寝付けぬ夜だった。カカシは数度寝返りを打ち、
襲って来ぬ眠気に瞑っていた目を開いた。
窓からは、薄っすらと明け始めた空の色が見えた。これじゃあ、今日の授業は居眠り
してしまうな、と思った。何の授業だったか、何限からだったか…と働かそうとした頭は
ぼんやりとしたままだった。
そんなことを思いつつ、何とかまだ寝ようとして目を閉じていると、薄くある意識の中で、
物音を聞いた。下の階から。
ガラララ…と、玄関の戸を開ける音だ。
こんな早朝に一体、と、カカシは身を起こした。早朝の空気は冷えていてまだ肌寒い。
上掛けを羽織り、鬘とコンタクトを付けた。そうして、どうせ眠れないしと、
むくりと起き上がって階段を降りた。
「…あれ…カカシさん」
玄関口には、イルカが居た。
服装はスゥエットで、肩にタオルを掛け、走ってきたかのように息を切らせていた。
「おはようございます、もう起きられたんですか?」
タオルで汗を拭いながら、イルカは笑った。
その後方から、青葉が姿を現した。同じような格好で、同じように汗を掻き、
タオルで拭きながら息を整えていた。
「…何? 二人でジョギング?」
「あ、俺は新聞配達をしているんです。青葉さんは、体力づくりにと一緒のコースで
ジョギングです。俺は自転車に乗っているんですけど、なかなかいい運動になりますよ」
「ふぅん…」
確かに青葉の方が、体が辛そうだった。ゼエハアとまだいっている。イルカは、
朝食と弁当の支度があるからと、足早に台所へと向った。
カカシはちらりと青葉を見て、言った。
「どうせなら、アンタも新聞配達すりゃいいのに。そしたらお金になるし」
「そんなことしたら、一緒のコースは走れんだろう」
「…はぁ?」
「最近は物騒だからな。イルカを一人にすると、どんな暴漢に襲われるか知れん…」
真顔でそんなことを言う青葉に、カカシは心底呆れた。こんな早朝に、どんな暴漢が出て、
しかもイルカのような男を襲うという発想が出来るのだろうか。
青葉は、シャワーを浴びると言って浴室へ向った。
カカシは完全に目が冴えてしまったので、寝直しに戻るのもな、と思っていた所、
台所からいい匂いがしてきたので、そちらに足を向けた。
台所を覗き見ると、イルカが炊飯器からご飯をよそい、おにぎりを握っていた。
具を見れば、カカシの大好物のおかかだった。おかかおにぎりは最高だと思う。
イルカの握るおかかおにぎりは、醤油の加減も絶妙だった。
「何で新聞配達なんかしてんの?」
イルカに近づきながら問うと、イルカはカカシに顔を向けた。
「お金を貯めようと思ってです」
「管理人しているのに?」
「ええ、管理人させてもらっているんで、随分楽になりました。以前は、新聞配達の他に、
弁当屋や宅配の仕分けとかのバイトもしていたんです」
「そんなにやってたの? 何で?」
最近、カカシはこうやってイルカに疑問をぶつけていた。アスマが聞くなといった
一件以外は、こうやって聞いてもいいと分かった。イルカもすんなり答えてくれる。
「俺、高校からは一人暮らししていたんですよ。それで…」
「ふうん…」
そういえば、両親が亡くなってからは親戚の家に預けられたと聞いていたが、
高校からは自立していたのか。…頼れるような親戚ではなかったのだろうか。
いっそ、自分と同じバイトを紹介しようか、と思ったが、すぐにやめた。イルカは、
ああいう所には近づかない方がいいと思った。
イルカの手の中には、ほかほかの、握られたおにぎりがあった。そういえば、
暖かいままのおにぎりは食べたことが無い。それに何だか眠れなかったせいで、
お腹も空いている。
カカシは、イルカのおにぎりを持つ手を取り、自分の口まで運んだ。
「…え?」
そしてそれを、そのままパクリと食べた。イルカの目が点になる。
一口で収まりきるわけもなく、もぐもぐと噛み、嚥下してからまた食べた。イルカはただ、
身動き取れずにじいっとカカシが自分の手からおにぎりを食べるのを見た。そのおにぎりも、
もう全てを食べ終わる瞬間、カカシの唇が自分の手の平に触れた。柔らかい感触に、
思わずドキリとした。なのにカカシは、イルカの手の平についた米粒を、
その唇で食もうとして、また唇を触れさせた。咥内の肉の感触さえさせる。
「…ひゃっ」
その感触に、身体の奥に電気が走ったかのようで、イルカは小さく声を上げ、
咄嗟に手を引いた。
手の平に残るカカシの唇の感触を消したくて、洗い場でザァッと手に水を流した。
「も、もう…、何勝手に食べてるんですかっ。カカシさんの分、一つ減らしますよっ」
「それは駄目。なんかお腹空いちゃって。美味い。握りたても美味いなぁ。これからは
ご飯もおにぎりにしてよ」
もぐもぐと口を動かしながら、カカシは悪びれることなく言った。
機嫌がわりと良さそうな上、口元を笑ませ、そんなことを言われてイルカはドキリとした。
水で流したはずの手に、まだカカシの唇の感触が残っている。
「…カカシさんは、アメリカ人でアメリカ育ちかもしれないですけど、ここは日本なんです。だから、
そんな外人さんの行動は、止めて下さい」
「…え? アメリカ人?」
「あ、違いました? じゃあイギリス人?」
「……」
「それじゃあ、えーとフランス人でどうでしょう?」
「……」
「分かった、ロシア人だっ!」
これでどうだ、と言わんばかりにイルカが言った。
「…えーと…何の話?」
「あれ…?」
興奮の収まったイルカは、カカシの素な反応に、首を傾げた。
「カカシさん、外国人なんでしょう? だから…」
「半分正解で半分間違い。というか、俺はずっと日本で生まれ育ったんだけど」
「えっそうなんですかっ!? いやだって、行動が外国人みたいじゃないですか」
「どこが?」
そういえば、アスマにそんなことを言ったんだっけと思い出し、カカシは少し眉を寄せて
尋ねた。するとイルカは、え、と少し言い辛そうにして、ほんのりと頬を染めた。
「…だって…風呂場で…あんな…、き、キスしたりとか…」
言われて、そんなことしたっけ、とカカシが首を傾げた時。
「――…何だって…?」
おぞましいほど低い声で、青葉が二人の背後から姿を現した。
メガネがキラリと光る。その奥の瞳も鋭く光っていた。しかし表情は黒い。背後まで黒い。
清々しいはずの早朝に、何ておどろおどろしい雰囲気を纏わせることが出来るのか。
イルカは、ぽかんと口を開き、これは誰? という顔をした。
青葉は、カカシに詰め寄った。
「おおおお前…きききききすって何だ? 何なんだ??」
お前こそ何なんだ、ちょっとは落ち着けよとカカシは思えど口にできなかった。
その迫力に負けてしまった。
「…あ、青葉さん…、あの、ちょっと…」
少し正気づいたように、イルカがそんな青葉を宥めようとした。
「その、キスっていっても、カカシさんにとってはちょっとした挨拶程度っていうか、
遊びみたいなものっていうかっ」
それはフォローじゃない、逆効果だとカカシには分かった。
「ほう…ほんの戯れにイルカの純情を犯したと…」
人聞きの悪い言葉の応酬に、カカシはくらりと立ちくらみが襲った。この二人の脳の中は
どうなっているのだろうか。
「あのねぇ…、あんなの、気を落ち着かせる為の、単なるおまじないみたいな
もんじゃないの。キスなんて言わないよ」
やってられないと、頭をぼりぼりと掻き、カカシは溜息混じりに吐き出した。
「おっおまじない!? お前、何処にキスしたんだっ?」
「何処って、頭」
頭、と言われて、青葉は毒気が抜かれたような顔をした。けれども腑に落ちない所が
あるようで、また尋ねてきた。
「でも一体何で?」
面倒臭いが、放っておくともっと面倒だと思ってカカシは答えた。
「…えーと、管理人さんが…風呂場に入ってきてたムカデに驚いてあんまり怖がるからね、
ちょっと」
なんだかよく分からない理由を作ったが、イルカは多分傷のことに触れられたくない
だろうと思った。見れば、イルカはホッとした顔でカカシを見ていた。
青葉もそうか、と別段おかしいと思うことなく納得し、ムカデは気持ち悪いよなと零した。
青葉が出たので、イルカが今度はシャワーを浴びに浴室へ向った。
カカシも、時計を見ればまだ起きる時間ではなかったし、一先ず部屋に戻ろうとしたところを、
青葉が何かに気付いたように声を上げた。
「…っておい! それって何か、甘々の恋人同士がするような行為じゃないかっ!」
その青葉の叫びに答える気力も無く、カカシは振り返らずに部屋に戻った。
(04.08.08up)
青葉がどんどん変に…あああ。
こないだ風呂にムカデ出たんですよー。キモイ。排水溝に流してやりました。