第10話「死んだら辛かったから」
イルカの部屋の中。
時計の音が静かな中に響き、あとは時折り、シャーペンが紙を滑る音がする。
いつもの、カカシによる個人授業。
「…そこ違うよ。連立方程式のあと@に代入するって前に言ったでしょ」
「え…、あ」
数学の計算式を書く途中で、カカシの細い指がトントンと問題集を叩いた。
言われて、イルカは確かにそうだったと消しゴムで消して、
またやり直そうとしたところをカカシがイルカの手に持つシャーペンをくいと指で押して邪魔をした。
「…ストップ。今日はもうやめ」
「え…」
もう時間なのだろうかと壁時計を見ると、夜の九時を回ったところだ。
平日の授業は、夜の十時までやっていた。だからどうしてだろうかと最初は疑問だったが、
きっとカカシに用事があるのだろうと思った。
「すみません、カカシさん用事があったんですね、オレ…」
「違うよ。アンタにやる気が無いからやっても無駄でしょ」
「え…、そんな…」
思わずイルカはドキリとした。
決してやる気が無いわけではないのだが、確かに気もそぞろだった。
けれどもそれをこうも見破られるとは。
「…すみません」
イルカは否定しようとして、結局素直に詫びて俯いた。
申し訳ない。こうやってカカシの時間を潰してやってもらっているというのに。
カカシはイルカを見つめ、そしてイルカの顎をその細い指でくいと上に上げた。
「…何があったの?」
「…!」
思わず胸をドキリとさせて、カカシから目を逸らした。
「別に…その、…お、お腹がいっぱいで…眠くって。すみません」
そう言うと、カカシは二人を挟む机を退かせて、イルカに詰め寄った。
「嘘吐き。そんなんじゃないでしょ」
「……」
問わないで欲しい。答えられることなんて何も無い。
知られたくなくて。
迷惑も掛けたくなくて。
それでもこうして隠していることも、辛い。
「…やっぱり、眠くて集中力散漫になってました。もう寝ます」
イルカは努めて笑いながらそう言い、カカシの手から逃れるように身体を引いた。
「また明日、お願いします」
そしてイルカがそう言うと、カカシは後ろ頭をボリボリと掻き、やがて腰を上げた。
どうにもここの所、イルカの態度がおかしいと思うのだが、
カカシはそれ以上の追求をやめた。
一歩、踏み込めずにいる。
何故だか、あまり追い詰めたらイルカが壊れてしまいそうな気がして。
イルカがどこかにいってしまいそうな気がして。
(…なんだろうこの気持ちは)
カカシはポケットの中から、携帯電話を取り出した。
これに着信があった、あの日からだ。
イルカは間違えて掛けたというが…本当にそうだったのだろうか。
カカシの中に、未だに拭い去れぬ不安がある。
あの男だ。―― イルカの親戚、カジという名の男。
その存在があるから、あの日だって携帯が繋がらない時に言いようの無いぐらい不安が走った。
(…まさか…管理人さんと…出会った…?)
考えただけでドクンと胸が騒ぐ。
実はそれを一番勘繰っている。
あの男は本当にイルカのただの親戚というだけで、自分が危惧するようなものなど何もないかもしれないのに。
それなのに。
あの男の名をイルカに訊くことさえ、出来ないでいる。ましてやカジと会ったのかなんて更に訊くことなど出来ない。
その存在をイルカの前に現せたくないのだ。
ひとつ屋根の下2 第10話「死んだら辛かったから」
紅は部活を終えて着替え終えると、部室を出た。
当然だが、外は既に真っ暗だ。そして寒い。
「カスミ、早く」
さっさと帰りたくて未だ部室内に居るツレに声を掛けると、すぐに呼ばれた友人は部室を出てきた。
「うはっさむぅ」
そして外の外気に触れ、身震いをひとつしてから前を向いた。そして前方の暗がりに、
とある人物を見つける。
「…あれ、マキが一緒に居るの、畠くん?」
「…ああ、そうみたいね」
「なんで? あの二人、いつの間に仲良しさんに?」
「さあ?」
つれない紅の態度に、カスミはムッとした。
「なによぅ、気のない感じ。畠くんといえば紅じゃない。アンタが知らないなら誰に聞けばいいっつーの」
「誰に聞く必要あるってのよ。別に話すぐらいどうでもいいでしょう」
「やだぁ、気になるぅ」
紅はカスミのことを面倒だとばかりに放り、スタスタと歩き始めた。
それにしても。
チラリとカカシ達の方を見る。
「……」
イルカのことを諦めたとか? と一瞬だけ考えたことを、すぐに打ち消した。
今日の昼だってイルカのことを話していたのだ。
二股…なんて器用さも無いし。ただ話しているだけだろうが。
問題は女のほうだ。
「さて…どーしようかしら」
あれほど問題は起こすな、と言ったのにと紅は不機嫌に思った。
カカシは、部活を終えてさっさと帰ろうとしたところを、マキに捉まった。
話すようになってから、一日に一回は話をしている気がする。
話し上手な女で、それに長時間というわけでもなく、ほんの一言二言言葉を交わすだけの時もあれば、
数分ほど話すこともある。しつこく付き纏うようなことはしない、あっさりとした態度だから、
カカシも嫌にはならなかった。
「カカシくん、お疲れ! 今日はあんまり調子良くなかったみたいね」
「ああ…」
「くぅん」
「…?」
カカシが話しかけた所、どちらの声でもない鳴き声のようなものが、二人の間から漏れた。
「あ…あは」
どこかで聞いた声だ、とカカシが訝しく思っていると、マキが苦笑いをしながら肩にかけていたスポーツバッグのファスナーを開けた。
そこから、ひょこりと顔を出したのは、子犬だった。
「内緒ねコレ。ちょっと連れて来ちゃってて…」
マキが説明を始めるが、カカシの視線は子犬に釘付けだった。
じっと子犬を見つめるカカシの様子を、マキは意外に思い尋ねた。
「…もしかして…カカシくん、犬が好き?」
「好き」
即答だった。
見ていて可愛いとか、気になるとか、触りたいとか。嬉しくなるとか。
こういう風な気持ちを好きと表現するのだろうと、最近カカシは学習した。
勿論、教材はイルカだ。
カカシがあまりに熱心に見つめるので、マキはバッグの中から子犬を取り出して「はい」
とカカシの前に差し出した。
カカシは自分が手にした子犬を、しげしげと見つめた。
パグという犬種で、まだ子供だから小さい。両手で抱えると少し体がはみだす程度だ。
「カカシくんが犬好きだったなんて…ちょっと意外だったけど、なんか嬉しいな。
犬飼っているの?」
「いや、今は飼ってない。けど昔飼ってた。これと同じパグ犬」
「そうなんだ…! そんなに好きなら、どうしてもう飼わないの?」
過去に。
カカシが幼い頃―― あれは父親に助け出されて、割合すぐだ。
日本語を理解出来ず、急遽英語を話せる世話係が付きはしたものの、
カカシは誰にも心を開こうとせず、話しかけても返事をかえさなかった。
それで父親は、動物をと、パグの子犬を与えた。
カカシは初めて眼にする子犬を最初は不思議そうに遠巻きに見ていたが、
やがて近付き始め、そして触れた。
子犬を可愛がりだすまでにそう時間は掛からなかった。
…だけれども。
カカシは僅かに瞼を伏せた。
「…死んだら辛かったから」
その答えに、マキはしまったとばかりに口を手で覆った。
「ご…ごめんなさい…、私無神経だったね」
「いや、別に」
なんでもない様子で、カカシは子犬を構うことに熱心だ。
それでもカカシが辛そうな様子を見せたのを、マキは暗がりの中でもしっかり見ていた。
「…ウチにいつでも遊びに来てよ。チャッピーに会いに」
「…チャッピー?」
「その犬の名前よ」
マキがそう言うと、チャッピーもそうだと言わんばかりに小さな尻尾を振った。
そのチャッピーの様に、カカシは小さく笑った。
「…そうだね」
マキの提案にカカシが頷くと、マキは頬を染めて、嬉しそうに笑った。
(07.01.08up)