第9話「誰にも言わないで」
イルカは背中に戸を閉める音を聞き、カカシが出て行ったのだと知った。
大学に戻ったのだろう。本来ならまだ講義が残っているはずだから。
息を切らしていた。あのカカシが。
おそらく、電話しておきながら携帯の繋がらない自分を案じて…とは、
自惚れなんかじゃないはずだ。
携帯が繋がらなかったぐらいで。
意外に勘のいいひとだから。
…大事に…想ってくれているから。
「…ごめんなさい…」
涙腺が緩むその目を、ぎゅっと瞑った。
なんて弱いのだろうかと思う。
こんな風に迷惑をかけてしまうなんて。
これより少し前。
青葉はイルカが木の葉荘に戻ると、大学ヘ行った。
心なしかいつもより出迎えがオーバーに感じたのを不思議に思っていたが、
よくよく考えるとコテツが青葉に用事があると言っていたことを思い出した。
思い出して、一気にイルカは青ざめた。
コテツのことをすっかり忘れていたが、あの男を彼も見た。そして、
あの男に―― カジに話しかけられて逃げるように駆け出した自分をも見ているのだ。
青葉に何か言ったのかもしれない。
…いや…その前に。
カジがコテツに何かを話したのかもしれない。
その考えに至った時、イルカは無我夢中でコテツに電話をした。
「…もしもし? イルカ?」
しかし電話の向こう。コテツが電話をとってその声を聞くと、
イルカは聞きたかったはずなのに声さえ出せなかった。
怖かった。
知りたいのに聞き出すのが恐ろしすぎて、イルカは固まったままどうすることも出来なかった。
[イルカ? おーい。ところでお前今何処よ? 急にどっか行っちまうからどうしたのかと思ったぜ]
何も言わないイルカに対して、コテツは普段と変わりない調子でそう話しかけた。
それが、イルカの中で吹き荒れていた恐怖を幾分鎮めた。
「…ごめん。木の葉、荘に…」
[そっか、戻ったのか。まぁもういいけどよ]
「…ごめん」
[いいって言ってるだろ]
何度も詫びるイルカに対して笑いながらそう言うコテツは、本当に普段のままだ。
イルカは泣き出しそうなぐらいに安堵した。
…だが。
[…そういやさ、あのひと…あの男のひと]
「…ッ!」
カジのことだとすぐに分かり、イルカは途端に真っ青になってガクガクと震えだした。
[なんか胡散臭かったからお前のこと尋ねられたけど無視しといてオレもとんずらしちまった]
けれども、コテツは屈託無く笑いながらそう言って。
イルカは全身から力が抜けて、その場に尻を着いた。
[…ん? マズったか? それで良かったんだよな?]
何も返事をしないイルカに尋ねてくるコテツ。イルカはやっと、口許を緩ませることができた。
「…ああ…、助かった」
コテツで良かった。
コテツがこういうヤツで、本当に良かった。
それじゃ、と電話を切って、イルカは長い息を吐き出した。
コテツは何も訊いてはこない。どういう男なのかとか、何かあったのかとか。
それがどれほど今ありがたかっただろう。
自分が木の葉荘に住んでいるということは、幸いなことにコテツしか知らない。
学校がバレてしまったが、今のところはここまでバレることはないだろう。
(…けれども学校はどうすれば…)
いや、学校だけではなく。
イルカは途方に暮れる気持ちだった。
本当はもう二度と顔を合わせることのない所へ行きたい。遠く。いっそ宇宙にでも。
けれどもそうもできないことも知っている。
ここに居たい。
この木の葉荘に。
やっと出来た居場所なのだ。
やっと出来た家族のような温もりなのだ。
しかしそれも、あと僅か。木の葉荘の皆と一緒に過ごせる時間は、よくてあと数年。
それでもここがいい。それだからこそ、出来る限りの時間を一緒に過ごしたいと思う。
だからどうか。
どうかもう、自分を探さないで欲しいとイルカは願った。
ひとつ屋根の下2 第9話「誰にも言わないで」
「…あ、居たカカシくん」
弓道場に向かう道のり。カカシを見つけて、昼食時の女が駆け寄ってきた。
そういえばすっかり忘れていたが、イルカの電話にこの女を置いていったのだ。
しかし別段ツレというわけでもなし、むしろ付き纏われているようなものだったので、
そのことにおいて罪悪感などは無い。
だが、思い出すとカカシもこの女に用があることとなった。だから女を無視することなく、
向かい合うことにした。
「もー、話してる途中でどっか行っちゃうんだもん。…もしかして彼女とか?」
電話を掛けてきた相手、そして電話を掛けた相手であるイルカのことを言っているのだろう。
名前も「イルカ」なので、女と思っても不思議ではない。
「…違うよ」
だからカカシは否定をした。けれども面倒なので相手は男だとかそういったことは言わなかった。
「あれ、そうなんだ。てっきりそういうコなのかなって思った。じゃあ、好きなコとか?」
「まぁね」
頷けば、女は僅かに表情を顰めたが、それもほんの一瞬だけですぐに笑顔になる。
「へえ。カカシくんでも片想いするんだ。ちょっと意外」
女とそのまま並んで歩く。
別段カカシは、この女を嫌だとは思わなかった。
特に興味も持てないが、鬱陶しいと思うこともない。人付き合いは決して良くないカカシだが、
だれかれとなく嫌うわけでもないし、助教授やその友人、そして木の葉荘の―― 特にイルカの影響で、
以前ほど他人に対して棘や冷淡さなどは持たなくなった。
人当たりがよくなったと、今までその冷たさに敬遠していた女達にも人気が上がったことは、本人は知らない。
だがそれを知るアスマなんかは、
それでも人並み以下のくせに元が酷過ぎただけで評価が良くなるとはどういうことだ、
とぼやいていた。
「…あのさ。携帯持ってることは内緒ね」
「え…?」
「誰にも言わないで」
「…誰にもって…?」
「紅とか。とりあえず知ってるの、アンタだけだから」
あと、助教授とアリスも携帯を持っていることは知っているが、
別段そのことを言う必要も無いだろうと思った。
要は誰にも言わないでくれたらそれでいいのだから。
「えっそうなの? 紅も知らないんだ。いいけど…何で?」
携帯を持っていることを誰にも知られたくないというのは、誰だって不思議に思うことだろう。
ましてや、周囲からは一番仲良さそうに見えた紅までとくれば、訊きたくなるのも当然のことだ。
「面倒だから」
そのカカシの回答は、納得するには足りないもので、
実際女はそうカカシが言っても疑問の晴れない顔をしていた。
けれどもやがて、「そうか」とごちる。
「…好きなコ専用の携帯なんだ」
的を得ているような、でもそうでもないような。
ただ単に、イルカが心配せずにすむように持ったのが始まりで、
今まで持つのを厭っていたのに持つことにした理由を、
詮索されたり知られるのが何となく嫌だったから内緒にしていた。
今は…今もよく似たようなものだ。
とりわけアスマに知られたくない。
カカシは未だに風呂場でおにぎりのことを馬鹿にされたことを、根に持っていた。
紅や木の葉荘の奴等に知られると、アスマの耳に入りそうで嫌だ。
だからこの女から紅に知られることもありえるので、口止めをした。
「別に専用ってわけじゃないけど。知られたくない奴がいるだけ」
面倒だから。
「ふぅん…じゃあ、私にも番号教えてよ」
「え?」
「別にそんなかけたりするとかじゃなくて。誰も知らないのを知ってるのって気分イイし。
内緒にしてる口止め料みたいな感じ。ね?」
軽い提案のように女が言った。
カカシはイルカ以外に電話番号を教えていない。
それは携帯を持っていることを知る人間が限られているせいだし、
知っている助教授やアリスには教えたく無かったわけではなく、
元来携帯を使うことがないから自分から教えるという感覚が無かった。助教授達も、
携帯で時間を見るカカシを何度か目にしただけで特に話題にもならなかったし、
だから番号を尋ねたりとかもしなかった。
「…いいけど」
今までほぼ使用されなかった携帯ゆえに、教えたところで言わないという以上どうこうなるものとは思わなかった。
だからカカシは女の言うことを鵜呑みにして、カバンから携帯を取り出した。
「でもオレ、これの番号知らないよ。覚えてないから」
買ってすぐにイルカがどれかの番号を押せばいいと教えてくれたが、
そんなの覚える必要はないとばかりに本当に覚えていなかった。
カカシがそう言うと、女は今までみせたどの笑顔よりも自然に笑った。
「やだ、もーホント、おっかしいカカシくん」
くすくすくすと笑う。
そうして笑う女は可愛らしく、先ほどまでの大人びた雰囲気が変わった。
「…なんか…思ってたのと全然違うね。こんなカカシくん知ったら、今よりいっぱい敵ができそう」
「…?」
「貸して。どれか押せば表示されるはずだから」
言われるがまま貸すと、女は機能を調べだして、漸く表示方法が分かったらしく、
自分の携帯を取り出してそれに登録した。
女の手から戻った携帯に、すぐに着信音が鳴った。
イルカか、と思ってすぐに取ろうとしたが、それより先に音が鳴り止む。
「それ、私の番号だから」
昼ごろに教えてもらったように掛けなおそうとすると、女がそう教えた。
「登録しといてね。って、カカシくんは私の名前知らないよね」
女はいたずらっぽく笑った。
「私の名前は『遠藤マキ』よ。三回生だから歳はひとつ上かな。よろしくね」
「……」
そこで、クラブハウスに到着した。
女と男は違う棟だ。
「じゃあ、またね」
女は手を振って、女用クラブハウスへと向かっていった。
「……」
登録してと言われても。
カカシはやり方を全く知らなかったので、そのまま放置した。
「…なんだよあれ」
「どうしたライドウ」
少し不機嫌気味にごちたライドウに、その友人が問いかけた。
図書館に向かう途中、カカシが女と歩いているのを見かけたのだ。
それでどうして不機嫌になるのかといえば、ただ単純に羨ましかっただけだ。
遠目であるものの、隣りに並んで歩く女は一般的に美人の部類に入るであろうと思われた。
カカシなんて。…別に嫌いとかではないが、妬みの対象だ。決していい性格ではないのに、
顔が良くてモテるのだから。
「いや別に何でもないけど」
だからどうしたと問われても、そんなしょうもないことを言えるはずもないし、
取り立ててああだこうだという話でもない。カカシを非難したいわけでもない。ただのぼやきだ。
しかしてっきり、紅が彼女だと思っていた。
そうではないと否定するが、よく昼食時に一緒に居る所を見かけたから。
けれども、もうひとつ。
ゲンマは、カカシはイルカのことが好きなんじゃないか…などと言ったことがあったが、
やっぱりそんなわけはなかったということだ。なんたって二人は男同士なのだから。
それにしても上手いことやってるカカシが羨ましい。笑ったりなんかして、
とてもいい雰囲気だったし。
「さ、とっとと調べようぜ。試験ももうすぐだし」
「ああ。面倒くせー。試験なんて勘弁して欲しいぜ」
友人とそんなことをぼやきながら、ライドウは図書館の中に入って行った。
(07.01.04up)