第16話「お前なんか苛々してないか?」
時計を見れば夜の九時、もうカカシが迎えに来てくれている頃だ。
窓から覗くと案の定、カカシがナルトの家の門に背をもたれさせている姿が見えた。
複雑なものを抱えながらも、カカシをこの寒空の下待たせるわけがなく、
イルカはナルトに帰る旨を伝えた。
「ちぇっ、もう時間かよ」
ナルトはつまらなそうに唇を尖らせた。
イルカは急いでジャンバーを着て、そしてカカシから借りたマフラーを手にした。
ナルトの部屋は二階にあり、階段を降りればすぐに玄関だ。
イルカの後ろにナルトはついて降りてきた。靴を履き終えて顔を上げたイルカは、
ナルトと目を合わす。
「じゃあな、ナルト」
「おう。また来週だってばよ、イルカ先生」
来週。それで、この家庭教師も終わりとなる。そう思うとこの別れも、少し切なさが滲んだ。
そこにカブトがいつものように見送りにやってきてくれて、「ありがとうございました」
と礼を述べた。立ち去りがたい気持ちがそれで引っ込められた。
「おじゃましました」
戸を開けて、カカシに声を掛けながら駆け寄った。
「すみません、お待たせしました」
「…マフラーは?」
「あ、マフラーはここに…」
イルカは手に握っていたマフラーを、カカシに返そうとして目の前に差し出した。
しかしカカシは、それを受け取るとまたイルカの首に掛けた。
「カカシさん、もう大丈夫ですから…その」
「いーの。オレの気分がいいから付けといて」
「…? は、はぁ」
何故なのかイルカには理由がさっぱり分からないが、そう告げるカカシは、
本当に機嫌が良さそうだ。だからイルカは大人しく、マフラーをまた借りることにした。
来た時と世間は変わらないようで、空の星は数を増やしている。寒さも一段と増した気もした。
こんな寒さの中で、一体どれぐらい待たせていたのだろうかと思うと、
イルカはいたたまれない気持ちだった。
「インターホンでも…押してくれたら来てくれたことが分かるのに」
「あのメガネが出てきそうだから嫌」
「……もう」
何度もそう言う度に、カカシも同じこの返答だ。
こっちは真剣に言っているのにと、ついむくれたイルカは、しかしハッとあることに気付いた。
「…あ。そうだ、オレの携帯に電話してくれたらいいんですよ」
どうしてこんな簡単なことを思いつかなかったのだろうか。
するとカカシも同じ様で、目を丸くした後、「そうか、その手があったか」とごちた。
そして、嬉しそうに笑う。
「……!」
夜道だが街灯がある程度明るく周囲を照らしてくれているので、表情が分かる。
イルカはそのカカシの顔を見て、どうしてだか胸がきゅっと締め付けられたかのように苦しくなり、
痛みも伴う。
本当にどうしたことだろう。
カカシの顔は、嬉しそうなだけで哀しそうでも何でもないというのに。しかし、
実際にカカシが哀しそうな顔を見せる時の痛みとは、違う気がした。
「そっか。じゃ、そうする」
そんなイルカの気など知らぬげに、カカシはイルカの提案に頷いた。
携帯電話を取り出して、カカシは開閉を数度繰り返した。カカシの右手に明かりが灯る。
イルカはそれを見ながら、―― ふと、その携帯の登録番号が知りたいと思った。
しかしそれをすぐに打ち消す。
一体何を考えているのだろうか。こんな自分はおかしい。
――――『彼女』なんて。
冗談交じりにでも問えばいい。ナルトに見たって聞きましたよと。
そういえばライドウさんも言ってました、と。
「…カカシさん」
「何?」
優しいカカシの声音。
「…ええと。オレ、ナルトの家庭教師、今月いっぱいまでになりました」
「へえ。そーなんだ。そりゃ良かった」
前から辞めて欲しがっていたカカシは、嬉しそうだ。
寂しいこちらの思いなど知らぬ気に。つい、イルカはむすっとしてしまう。
けれども。
「…でも管理人さんの送り迎えが出来なくなるのは残念」
「……」
そう一言、イルカに向かって告げるというよりは、独白に近い響きで洩らした。
それだけで、先程の小さな腹立ちは、霧散する。
「あ、もう着いちゃった」
そして気付けば、木の葉荘が目の前だ。
結局、イルカは本当に言いたかったことを口にすることが出来なかった。
ひとつ屋根の下2 第16話「お前なんか苛々してないか?」
イルカは台所でおにぎりを三個ほど握り、それを乗せた皿にタクアンも数切れ付けた。あと、
お茶を淹れた湯のみも一つ。
時計を見れば、夜の十時頃。
「…よし」
イルカはおにぎりを乗せた皿を見つめて頷き、階段を上がった。
二階は下宿生の部屋のみで、空き部屋もある。
木の葉大学生で両親が居ないとくれば、そんな条件に当てはまる学生もそういるわけでもないし、
一般で募集していないから口コミだし、だからあまり知られていない。更に、
最終的にはオーナーが気に入るかどうかが大事なのだ。
イルカは一応、木の葉荘の管理人は高校卒業までとの契約なのだが、
もしお願いしてオーナーが許可してくれるのなら大学に進んでからも管理人を続けたいと思っていた。
本来ならばもっと割のいいバイトなどをして、卒業後の資金を稼ぐべきなのだが…―― それでも、
管理人をやりたいと思っている。
自分が作る料理を美味しいと言って食べてもらえるのが凄く嬉しい。それも、木の葉荘の皆に。
更に―― 必要とされていると思えるのだ。
この、自分が。
それがたまらなく自分を幸せにしてくれている。
割合新しい入居者、ライドウの部屋はアスマの部屋の正面にあたる。
イルカはその部屋の前に立ち、片手に皿を持ちコンコン、とドアをノックした。
「誰だ? どーぞ」
その部屋の主であるライドウが返事をして、イルカはドアノブをひねった。
部屋の中には、机の上の参考書を睨み付けていたライドウが居て、
イルカの入室と共にその顔を上げた。
「イルカか。どうした?」
「その、すみません…勉強中に。これ差し入れです」
イルカはひょいと、おにぎりが三個乗った皿を差し出して見せた。
「おおっサンキュー!」
今は夜の十時、丁度腹の減った時間だ。イルカの差し入れに、ライドウは素直に喜んだ。
ライドウは来週から始まるテストの勉強をしていた。
こう言ってはなんだが、いかにも怖そうだとか、悪い事をしていてもおかしくない人相と人から見られがちなこのライドウは、
実は人情家で優しく、根が真面目で努力家なのだ。いつもコツコツと勉強をして、
木の葉大学受験へ向けても並ならぬ努力をした。
だが運の無い男で、不慮の事故などがあって二浪することとなった。
それでもゲンマ曰く悪運の強い男らしく、家事で両親を亡くしはしたが、
ライドウは顔と腕等に火傷を負ったものの一命を取り留めた。妹も生き残っている。
ライドウは嬉々として、折りたたみ式の簡易デスクから腰を上げイルカに近寄っていく。そして、
イルカからおにぎりの乗った皿を受け取った。
「美味そう。本当イルカは気が利くなぁ」
「いえ、そんな…」
イルカは照れて頬を染め、僅かに俯いた。褒められて照れ臭くもあり、
また少し下心があった為に罪悪感もある。
照れるイルカを、ライドウは可愛い奴だと眺めながら、おにぎりを一つ頬張った。
「うん、美味い。本当サンキューな、イルカ。オレ頑張るよ」
ニッカと笑うライドウに、罪悪感を増しながらも、イルカは問いを口にした。
「…その。前に言ってた…カカシさんの、彼女っていうのは…」
「ん?」
「……どんな人なんですか?」
もぐもぐとおにぎりを咀嚼するライドウは、イルカがぼそぼそと心持ち小さな声音で切り出した内容に、
おや、と眉を上げた。
「あれ? お前見たこと無ぇの? 意外だな、お前とカカシさんって仲良しって感じなのに」
「…はぁ…、」
ライドウの悪気無い言葉に、それでもイルカは幾分傷ついた。
ライドウも己の発言の不用意さに気付いたように、しまったという顔をした。
「あ、いやいや。別にだからってお前のことダチと思ってないってことじゃないと思うぞ。ほら、
紹介するにもタイミングとかあるしさ!
それにカカシさんってそういうのわざわざするようなタイプにも見えないっつーか」
「…ダチ…?」
『ダチ』とは『友達』という意味だとは当然分かっている。カカシと自分の関係が、
傍から見てそう見えるということが、イルカには思ってもみないことだった。
「ああ、そーいやさ、カカシさんってまるでお前のこと母親と思ってるっぽいとこあるよな」
あはは、とライドウは軽く笑った。
「……ッ!?」
「お前の前だと、妙に子供っぽいっつーか」
勿論、ライドウに悪気なんてこれっぽっちも無い。
ダチ云々は恋人のことを教えていないことについてのフォローのつもりだし、
母親のようだ云々はただの軽口のつもりだ。だからイルカも軽く乗ってくれるものだと思っていた。
「……ん?」
だがしかし、イルカは明らかにショックを受けている顔をしていた。
「ああいやそのだな、別にお前がおばさんっぽいとかそういう意味じゃなくってだな…」
「…もうしゃべるなライドウ」
軽口をマジで取られたと思ったライドウが慌ててフォローを入れようとしていると、
それを突然現れたゲンマが遮った。
「うおっ何だよお前、いきなり…」
ライドウの部屋のドアをノックも無しに開き、そしてこの一言だ。ライドウでなくたって面食らう。
事実、イルカもビックリして振り返った。
「ゲンマさん…」
「お前なぁ、ノックぐらいしろっていつも言ってるだろうが」
「何だお前、いいモン持ってるじゃない」
ゲンマはライドウの文句を聞き流して、その手に持つ皿の上のおにぎりを指した。
「一個ちょうだい」
「ダメだ。これはオレがもらったんだからな!」
ライドウは、すいっとおにぎりを乗せた皿を遠ざけた。
「ケチ。いいだろ一つぐらい」
「ダーメ」
ライドウは勝ち誇った顔をした。彼がゲンマに向けてこんな顔が出来ることなど、稀なことだ。
「…イルカ…オレの分は無いのか?」
「あ…ええと」
「これってエコヒイキってのじゃないの?」
「その…」
ライドウに迫っていたゲンマは、今度はイルカに向けた。
イルカは確かにその通りだと、窮した。
「こらゲンマ、お前イルカをいじめてんじゃねぇよ。大体だな、
これは勉強を頑張るオレへのご褒美的差し入れだ。お前は勉強なんかしてねぇだろうが。
無くて当然だ。気にする必要ねぇぞ、イルカ」
「じゃあ、オレもお勉強しまーす。だから作ってくれない? イルカ」
「おいゲンマ…」
「分かりました、ちょっと待っていて下さいっ」
たしなめようとしたライドウだったが、イルカは言われて頷き、ライドウの部屋を出た。
「ああイルカ、オレ自分の部屋に戻ってるから、そっち持ってきて」
「はいっ」
部屋を出ようとするイルカの背にそう告げたゲンマに、イルカはまた返事をして、とたたた、
と階段を駆け下りた。
ライドウは、ゲンマに苛立ったように睨み付けた。
「…ゲンマ。お前ちょっと酷いぞ。イルカは家政夫でもないんだからな」
「オレは間違ったこと言ってるとは思わないけど?」
「どこがだ」
「あーハイハイ。じゃあオレはせめてものお詫びに、
イルカのお手伝いをさせてもらいに行くとします」
ライドウに背を向けたゲンマのその肩を、ライドウが掴んだ。
「待てよ。お前なんか苛々してないか?」
「……鈍感なクセに、そーいう勘だけは働くんだもんな、お前」
「…は?」
ゲンマは顔だけ振り返らせた。
怒っていたのはライドウなのに、振り返ったゲンマの方が怒っていて、
ライドウは思わず気圧されてしまった。
「そんなに男同士ってのは受け付けないか?」
「………!?」
ゲンマはライドウにとって意味がよく分からない言葉を残して、スタスタと部屋を出て行った。
パタンとドアが閉まる音と共に、半ば呆然としていたライドウは正気付く。
「……なんだありゃ…ワケわからん」
一人残されたライドウは、他に誰も居ない空間に向けてそう呟いた。
イルカは台所に戻って、早速おにぎりを握っていた。
一つ目を握り終えた頃合に、ゲンマが台所に姿を現した。
「ああイルカ、オレはその一つでいいよ」
「そうですか?」
言いながらも二つ目を握ろうとするイルカを、ゲンマは制止した。
「いいって」
「いえその…他の方の分も…」
申し訳なさそうに眉を寄せたままのイルカに、ゲンマは一つ息をつくと、
「いいから」としゃもじを持つ手を取った。その手からしゃもじを取り上げる。
「オレは勉強するから一つもらうけど、他の奴らは勉強してないだろ?
だからライドウの言った通り気にすること無いんだよ。っていうか、
オレのことも本気に取らなくていいんだから。まぁ、オレの言い方が悪かったよ。ごめんな」
タチの悪い冗談ってヤツだと、イルカを気遣い笑みを向けるゲンマに、
イルカはふるふると首を振った。
「いいえ…オレ、酷いことを」
「イルカ…」
イルカは目を潤ませて、まるで泣き出す一歩手前のような表情をしていた。
ゲンマは困惑した。
元々自分の分のおにぎり云々は、イルカをあそこから追い出す為の言葉だ。
他に思いつかなかったとはいえ、ああ言えばすまなそうにするだろうとは思ったが、
まさかここまで気に病むと思っていなかった。
何というか…過敏になっている。そして、余裕が無くなっている気がする。
少し前から感じていたが、イルカはここの所不安定だ。何かに怯えているようで、
不安を抱えているようで。その正体が何かまで分からないし、詮索することもしないが、
気にはなっていた。大方、『カカシの彼女』とライドウが発言したせいだろうと踏んでいたのだが…
どうにもそれだけではないというか、もっと違う理由に感じる。
だけどもゲンマの直感は、カカシのことが大きく係わっていると告げていた。
「…イルカ」
ゲンマはポンとイルカの頭に手を置いた。そしてそのまま、ポンポンと叩く。
「先ずアスマさんはいい。あれ以上肥えさせると、マジでヤバイ」
「……」
真顔でそんなことを言うゲンマに、イルカは目をきょとんとさせた。
「夜食は太るからさ。本人もダイエット中だと言っていた。そこにお前がおにぎりを持って行ったら、
アスマさんは食べなきゃ悪いと思うだろう? だからいいよ」
「…そう…なんですか?」
イルカはそんなこと、聞いたことが無かった。
勿論、ゲンマの口からでまかせだ。
イルカのこの調子では、各部屋に泣きそうな顔で謝りながらおにぎりを配り回りそうで、
それを止めたかった。
「そうだ。アスマさん、『最近腹が出てきた』って言って腹擦ってたぞ」
ゲンマがおどけて自分の腹を擦ってみせると、イルカは漸く表情を和らげ、
吹き出しそうになった。
「あは、ゲンマさんたら」
「それと青葉さんはまだ帰ってないからいい」
「…そういえば…」
ここの所…十一月に入ってからは、よく青葉は深夜まで帰ってこない。
とある塾の強化訓練の講師役をしているそうだが、
あの難しい講義が理解できるなんてよっぽどの進学塾だと思われる。
「残るはカカシさんか」
そう言うと、イルカは緩んだはずの表情を引き締めた。
「…カカシさんっていえばさ…、そういやライドウのアホが勘違いしてるけど、
彼女疑惑なんてされていい迷惑だって顔してたな」
「………え…?」
イルカは、まじまじとゲンマを見つめる。
ゲンマはまるで安心させるかのように笑んでいた顔を、人の悪い笑みに変えた。
「…実はな…、モテない男共が僻んで、カカシさんに彼女がいるって吹聴してるって噂なんだ。
そういうことにしておくと、女子の人気が減るだろ?」
「………」
「…さて、と。じゃあカカシさんの分だけ握らなきゃだな。あのひとお前のおにぎり大好物だし。
けど一個でいいと…」
「でも」
これで一先ず大丈夫だろうと思っていたゲンマを、イルカは遮った。
「…でも、ナルトも見たって…」
「……え?」
ゲンマはその名を知っている。ナルトとは、イルカが家庭教師をしている子供の名前だ。
だが、見たとは何を見たというのだろうか、そこが分からなかった。
「…何を?」
「…あ、いいえ…っ、何でも無いですっ」
思わず問うたゲンマに、イルカは慌てて首を振って、
そしてゲンマに取り上げられたしゃもじを取り返し、おにぎりを握り始めた。
「………」
イルカは一つ握り終えると、それとたくあんを数枚皿に乗せ、
ライドウと同じようにお茶を湯のみに淹れた。
「ゲンマさんも飲みますか?」
「ああ。悪い」
ゲンマの分もお茶を淹れ、イルカはお皿を手に台所を出た。
それを見送るゲンマは、結局あれ以上声を掛けることも、聞き出すことも出来なかった。
元々、人のことに首を突っ込むような性格じゃない。だからこれ以上動くことをしないつもりだ。
しかし気にはなる。
どうして、あれほど分かりやすくカカシはイルカを好きであるのに、
噂話程度で不安になる必要があるというのか。傍から見れば一目瞭然―― とは言い難いか。
何せアスマとライドウは分かっていないのだから。アスマは超鈍感な為。
そんな風には見えないのだが、恋愛事に関しては自分自身の気持ちにさえ鈍感だとゲンマは見ていて思った。
ライドウは同性間の恋愛感情を認めたくないのだろうと、ゲンマは解釈している。
それにしても、イルカもアスマ並に鈍感だと思った。
カカシの恋人がどうのとあそこまで気になる時点で、イルカの気持ちが知れるようなものだ。
それなのに、本人は無自覚のようだ。
ここから先、二人のことは見守るしか無いが。
ゲンマは嫌な予感を抱いていた。
(07.05.02up)