ひとつ屋根の下2

第18話「明日のお楽しみです」





 土曜の昼下がりの木の葉荘に、ピンポーン、とインターホンが鳴る。
「……」
 イルカは返事をせずに、先ずはインターホンに取り付けられたカメラの映像を見た。
「…あっ、はーいっ!」
 そして慌てて声を上げて、玄関へと向かう。

「―― こんにちは。お久しぶりです」

 にこやかに笑う紳士。
 そこには、カカシの父であるエノキが佇んでいた。
「こんにちは」
 イルカは笑顔を作った。
「……どうか…されましたか?」
 するとエノキは、気遣わしげに問うてきた。
「えっ?」
「なんだか、元気が無いように思えたので…」
「……ッ」
 イルカは頬に朱がさした。
 こんな、毎日顔を合わせているわけでもないひとに心配されるような顔を晒しているのか、と。
 もっと上手く振舞えていると思っていたのに、恥ずかしい。
「べ、別に…何も…」
 ふい、とエノキから視線を逸らす。
「いやいや、突然こんなことを言ってすみません。気のせいでしたね。不躾を許して下さい」
「いっいいえっそんな!」
 詫びるエノキに、イルカは慌てて手を振った。
「アナタにうちの息子が何かご迷惑を掛けているんじゃないかと、いつも気になっているもので…はは」
 エノキは頭を掻いて、苦笑いした。
「いいえ…カカシさんには、いつもすごく助けられてます」
「…そうですか…」
 照れ臭そうな、だが嬉しそうなエノキ。
 最近、エノキの態度が、遠慮が取れてどんどん父親そのものになってきているようで、イルカは嬉しくなった。
 いつも何かと食材を届けてくれたりするのだが、その度イルカがお礼を言うようにカカシに促してもあまり実行してくれなかったのが、 この間のサンマの時に、電話をイルカが掛けてカカシに代わると、 とうとうぶっきらぼうに短くだけれども、お礼を言った。
 余談だが、その後、エノキは目を潤ませてイルカに礼を述べに来た。

「カカシさんは居ませんが…どうぞ、上がってください」
「ああいえ、アナタといつまでも話していたいのですが…車を待たせていますので。…これを、 カカシに渡しておいて欲しいのですが…お願いしてもよろしいですか?」
 そう言って、エノキは煌びやかな封筒をイルカに手渡した。
 流石金持ち、封筒ひとつとっても豪華だ。
「分かりました。確かにお預かりします」
 しっかりと受け取ってそう言えば、エノキはじっとイルカを見つめた。カカシの父親だけあって、 エノキも美形。見つめられると思わず照れてしまう。
「あ、あの…?」

「…おそらく…息子はアナタを誘うと思うのですが…」

「…?」
 エノキはごそごそと、胸ポケットを探った。
「…ん? 無い」
「…??」
 普段落ち着いた紳士であるエノキは、明らかにしまったという顔をしてうろたえた。 想定外の出来事に弱いようだ。
「すみません…、私からお渡ししようと思ったのですが…手持ちがありませんのでまた、 次に来る時にでも」
「…え…?」
(何を?)
 そこで、「社長!」と呼ぶ声が届いた。エノキを待っている高級車から降り、こちらを窺っている。
「おおっと、すみません、それでは私はこれで失礼します。これからも息子をよろしくお願いします…!」
 イルカの疑問を、慌ただしく去っていく背中は教えてくれはしなかった。
「……何だったんだろう…」
 相変わらず、忙しいひとだと思う。
 イルカは封筒に目を落とそうとしたが、しかし足音を耳が拾った気がして、 すぐさま玄関の内側に入って戸を閉め、鍵を掛けた。
 戸に掛けた手が、小刻みに震えている。
 その自分の手を見つめて。
「…ちくしょう…ッ」
 いつまでこんな自分のままなのだろうと、イルカは自身に毒づいた。




ひとつ屋根の下2 第18話「明日のお楽しみです」





 今日は、カカシは部活に出ず、何処にも寄らずに真っ直ぐ帰ってきたので、 昼過ぎからイルカの勉強を、そして今は夕食の支度を手伝っていた。
 紅にもう行くな、と釘を刺された為に、カカシはチャッピーに会いにマキの家には行かなかった。 とりあえず今日は。
 しかし今後ももう、行かないとも思う。
 紅はこう言った。
『アンタ、まさかマキが自分に気があるって分かってないとは言わないでしょうね?』
 それぐらいは、知っている。大体声を掛けられたのも、そういうお誘いが始めだったわけだし。
イルカから着信があった為ハッキリ断りを告げることはないままだったが、 それからはマキも色めいたことを口にしなくなったし、応えるつもりはまるで無かったから、 別段構わないと思っていた。
だが、紅が言うには、例えチャッピー目的だと向こうも思っているにしても、 行くこと自体が相手に期待させてしまうからダメらしい。
そういうものなのか、とよく分からないままではあるが、 カカシは自分よりも紅の方がそういったことに詳しいことを知っていた。
だからもう行かない。

「…管理人さん、オレ玉ねぎ切る」
「え? でもカカシさん、玉ねぎ刻むの苦手だったんじゃ」
 イルカが玉ねぎの皮を剥き、これから刻もうとすると、カカシがそれをやると言い出した。
「だって。管理人さんも苦手でしょ?」
「苦手っていうか…そりゃ、まぁ」
 玉ねぎを刻むのが苦手な人は多いと思われる。だって目が痛い。なんでも玉ねぎを切ると、 何とかという成分が目を刺激して涙が出るらしい。
「前に刻みながらポロポロ泣いてたし」
「…っそ、そりゃあ誰だって…!」
 あれは玉ねぎの成分のせいであって、「泣く」という現象ではないと、 声を大にして抗議したいところだ。
 なんて言い方だろうと、イルカは真っ赤になった。
 そんな風に憤慨するイルカを見て、カカシがくすりと笑う。死んだ両親にもう泣かないと誓いを立てたイルカは、 泣くと言うとすぐに怒る。そうやってすぐにムキになる姿が可愛くて、 つい言ってしまうカカシだった。
「ね。アンタを泣かせたくないの。…貸して」
 カカシはイルカの手から、玉ねぎと包丁を奪う。
 イルカはカカシから顔を背けた。今、どんな顔をしているのか、 とりあえずカカシには見られたくない。
(この人…よくこんなこと、テレもせずに真顔で言えるな…)
 まるでタラシだ。
 分かってやっているのか、それとも分かっていないのか。
 いずれにしたって、これじゃあモテたって当然だ。
 そして当然かもしれないが、こんなこと今まで誰かに言われたことなどなかった。慣れてないから、 こんな言葉一つに動揺してしまうのだ。それが少し腹立たしくもある。
 ささっと手を洗ったイルカは、その濡れたままの手で頬を擦り、ひんやりと冷ます。
 カカシは今まで殆ど自炊してこなかったらしいが、元々手先が器用なので、覚えると早い。 綺麗に刻んでいる。
 やることを取り上げられたイルカは、次にジャガイモの皮を剥き始めた。
「……」
 隣りに。こんなにすぐ傍に、カカシが居る。
 手を伸ばせば届くところ。
 イルカは、カカシが久しぶりに真っ直ぐ帰宅してくれたことに、安堵を覚えていた。
 不思議だけれども、心が軽くなっている。
 張り詰めていた糸が、緩んでいくような…――

「…管理人さん、いい匂いがする」
 ぐつぐつと煮える圧力鍋から漏れる香りに、カカシが頬を綻ばせた。
「…え…、」
 ぼうっとしていたイルカは、カカシの言葉にハッと我に返って顔を上げた。
「オレ、ビーフシチューって初めて。美味しそう。早く食べたいな」
 そう言って、カカシがイルカに笑いかける。
「……」
 カカシはいい匂いがすると言って腹を空かせたが、イルカは胸が詰まる様な思いがした。


 そろそろビーフシチューも良い頃合、皿を並べ始めながら、イルカはふと、 昼間にエノキから預かった封筒のことを思い出した。
 置いてあった部屋に取りに行き、また台所に戻ってカカシに手渡した。
「はい、これ。昼間、カカシさんのお父さんが来られて、預かってたんです」
「あいつが…」
 カカシはムスッとしながらも、イルカの手から豪華な封筒を受け取った。
「…そっか、そういう時期か」
 封筒を眺め、カカシはつまらなそうにしてそう呟いた。
 そういえば、これを手渡される時に、『息子はアナタを誘うと思う』と言っていたが、 あれは何だったのか。気にはなったが、他人のものを勝手に見るわけにもいかなかったので、 カカシが開封するのを待っていた。
 だが、カカシはそれを開封することなく、ポケットの中にぐしゃっと突っ込んだ。
「…あっ」
 それを目にしたイルカは、思わず声を上げてしまった。
「え? どうしたの管理人さん」
 カカシはそんなイルカに、少し驚いたようだった。
「い、いえ…その…」
 開けて見なくていいんですか、と言おうとした所で、アスマが台所に姿を現した。
「いい匂いだな」
 そんなアスマに続くように、次にゲンマとライドウが姿を現した。
 木の葉荘での夕餉は、人の集まりも時としてまばらだ。
 基本的に両親が居ない苦学生達…とそれも人それぞれなのだが、 カカシ以外はバイトをやっているので、揃わない時は結構ある。
 残り、青葉がバイトで不在だ。
「…そろそろ、食べましょうか」
 今夜の献立は、ビーフシチューとサラダ。
 それを皆は、美味しそうに食べた。
「明日の昼ご飯は、このビーフシチューを使ってドリアにしようかと思ってるんですけど、 いいですか?」
 イルカが尋ねてみると、一同は二の句も無く頷いた。
「オレ、ドリアって食べたことない。どんなの?」
 興味深々にカカシがそう問う姿は、まるで子供のようで、イルカはつい笑みを零した。
「明日のお楽しみです」
 イルカがそう返すと、カカシはちぇ、とほんの少しだけ拗ねた。

 そんな二人の様子を見て、ゲンマは心持ち嬉しそうに目を細めた。
「カカシさんって、ホント今まで何食べてきたのかってぐらい知らない食べ物多いッスよね」
 スプーンによそったビーフシチューを口に含みながら、ゲンマが言った。
「ん。まーね。小さい頃は…おにぎりしか憶えてないなぁ。あとは家政婦さんが作ったのだけど、 魚料理が多かった。一人暮らししだしてからは…冷凍食品とか?」
 おにぎりに魚は、カカシの好物だ。そういうのは憶えていても、そうでないと憶えていないらしい。 元々、食への関心は薄いせいもあるのだろうが、カカシという人間が窺える。
 更に、幼い頃の思い出は全てを思い出したわけでもなく、 おにぎりにしてもイルカが握ったのを食べて思い出した程度のことだ。
 だけどそんなカカシは、イルカの作る料理はどれも上手いと言って残さず食べる。そうして、 一つ一つを覚えていく。だからイルカは、 カカシが食べたことの無さそうなものを料理の本で勉強して作ることも密かに多いのだ。
 カカシが、食べたこと無いと言って喜ぶ様を見るのが、嬉しいから。
「カカシさんて、本当におにぎり好きですよね。でもこの前、 カカシさんのお父さんにその話したら知らなかったと言って驚いてましたよ」
 くすくすとイルカが笑うと、カカシは若干苦い顔をした。
「…あんなのとしゃべんなくてもいいって言ってるのに。なにかとアンタに会いに来てんだ?」
「違いますよ。カカシさんに会いに来てるんですよ。それにお父さんにそんな言い方、オレ嫌です」
「違うね。あれは絶対管理人さん目当て。オレには分かる」
「そんなことないですってば。もう。いつもカカシさんのこと、 気に掛けて訊いてこられるんですから。今日だって」
「…何も言わなくていいよ」
 ムスッとした様子のカカシは、しかし本当に不機嫌なわけではない。どちらかというと、 照れを隠しているように見える。
 だからイルカも本当に窘めているわけでもなく、むしろ楽んでいるのだ。
「大体ね、オレは別におにぎりが好物じゃなかったよ。管理人さんが握ったおにぎりが、 記憶に繋がったってだけで…。今おにぎりが好きなのは、管理人さんが握ったおにぎり限定だし」
「……っ」
 イルカは一瞬で赤くなって、それが恥ずかしくて俯いた。
 カカシはどうしてこう、臆面もなくこんなことが言えるのだろうか。
 おにぎりなんて特別な料理でもなんでもないし、誰にだって作れるものだ。
(だけど…すごく嬉しい)
 母親の握ったおにぎりと同じに思えたから、だからおにぎりにこだわっているのかと思っていた。
 勿論、それも一端はあるのだろうけれども、それでもカカシは今、イルカが握ったものだからと言ったのだ。
 アリスに似ていると過去にカカシから言われたことがある。それでカカシは、 抱き締めてきたり傍に居たがったりしたのを、母親の代わりに自分に求めているのだろうと思っていて、 今でも時折りそう思うことがある。傍で見ているライドウも母親と思っているっぽいと言っていた。 だから…―― でも。違うのかもしれない。
 カカシが傍に居てくれて。こうして好意を含んだ言葉を口にしてくれて、 それで外の世界が何も変わったわけではないのに、大丈夫だと安堵してしまう。
 もう、恐ろしいものは無いのだと。


 ―――『イルカ…逃げれると思うなよ』 

 お前は、オレの


 耳元に甦る悪魔に似た囁きを、手をぎゅっと握り締めて傍に居るカカシを見つめ、 大丈夫だと胸の内に唱える。
 大丈夫。大丈夫だ。
 カカシが守ると、約束してくれたのだから。



(07.05.13up)