ひとつ屋根の下2

第19話「ただしオレと一緒が条件ね」





 問題集の解答を、カカシが丸を付けていく。採点されているイルカは、 どきどきとしてそれを見守っていた。
 数学と英語。イルカの苦手な分野を教えてもらっているのだが、 そのお陰でかなり実力がついてきた。今回は小テストをしたわけだが、 どんなもんなのだろうかあまり自信は無い。
 だが、カカシは全部に丸をつけて、顔を上げた。
「ん。ごーかっく」
 そう言ってにっこりと笑う。
「……!」
 イルカも途端に顔を綻ばせた。文句無しの正解の時だけもらえる言葉。 カカシにそう言って褒めてもらえるのが、一番嬉しい。
「じゃ、今日はここまでにしよーか」
「はい…! ありがとうございましたっ」
 イルカは居住まいを正して、ぺこりと頭を下げた。
「あの、お茶淹れてきますね」
 イルカがお茶を淹れに立ち上がろうとすると、それをカカシが止めた。
「いーよ、そんなの」
「でも…」
 渋るイルカを置いて、カカシはすっくと立ち上がった。
「…じゃ。おやすみ」
 そしてそのまま、部屋を出て行こうとする。
「…あ、あのっ」
「何?」
 思わず呼び止めるようなことを言ったイルカを、カカシが振り返る。
「………」
 だけどイルカは何も言えずに黙り込んだ。
 今日は日曜日。
 本来ならば…『褒美』をカカシに与える日だ。
 つまりはキスを。
 なのに今回も、カカシは強請ってこない。
(…どうしよう)
 咄嗟にカカシを引き止めてしまったが、さりとてキスはいいんですか、 などと聞けるわけもなかった。
「…どうしたの管理人さん。何か分かり辛いこととかあった?」
「…い、いえ…」
 しかもカカシはこんな風に訊いてくる。あくまで勉強のことしか頭に無いようなカカシにキスのことを持ち出せば、 なんだか自分の方がいやらしい人間のようだ。
 でも。これは元々の約束であり、勉強を教えてもらうことに対しての報酬なのだ。
 しかも言い出したのはカカシの方で、尚且つ無理矢理取り付けられたもので。
(…けど…他にお礼って…何をすればいいのか分かんないし。 カカシさんにはこんなにお世話になってるのに)
 イルカの言葉を待つカカシを見上げて、イルカは意を決したように言った。
「…か…カカシさん…、その…お礼…は、いいんですか…?」
 顔から火が出るかと思った。ぎゅうっと膝を掴む。
 カカシの顔を見ることが出来ずに俯いていると、やがてカカシがイルカに告げた。

「…ああ…、いいよ。もうあの約束は無しで」

 その言葉に、イルカは顔を上げた。
「強引にしちゃってたけど、もう気にしないでいいから」
 カカシは苦笑いを浮かべていた。
 ズキリとイルカの胸が痛む。
「……でも…、お礼…って、ほ、他に…何をすればいいか…なんて、オレ…」
「いいよ、何もしてくれなくて」
「………」
 そう言われると、イルカはまるで自分に対して興味を失くされたように感じた。
 また、不安が募っていく。
「そ、そうですか…」
「うん。じゃ、おやすみ」
「…おやすみなさい」
 カカシがイルカの部屋を出て行った。
 呆気ないぐらいのカカシの態度は、今までと明らかに違いすぎて、 イルカはぐらぐらと不安に揺れる自身を感じた。
 馬鹿みたいだと思う。
 こんなにも簡単に、カカシのことを疑ってしまうのだから。
 『彼女』という存在にだってそうだ。
 カカシは何度も自分に対して好きだと告げた。ついこの間も抱き締めて、キスをしようとした。 傍に居て、守ると言ってくれた。好意を寄せてくれているのは確かなはずだ。
 そう思うことも、同時にイルカを苦しめる。
 カカシのことを何だと思っているのだろうか。
 分からない。
 確かなのは、自分に執着していて欲しい、ということだ。

 そんな風に思う自分が一番疎ましかった。




ひとつ屋根の下2 第19話「ただしオレと一緒が条件ね」





 木の葉荘の下宿生達の、テスト一週間が始まった。
 といっても全ての日にテストがあるというわけでもない。
各自の選択した講義によってテスト日が異なるので、一週間といってもまちまちだ。

「あーあ、オレだけか…今日は」
 初日にテストがあるのは、ライドウだけのようだ。
「行ってこい行ってこい」
 楽しそうに手を振るゲンマに、ライドウはムスッとした。
「まだだよっ、テストは昼からだ」
 今は朝食の時間。そしてあらかた食事を終えている。
昨晩遅くに帰ってきた青葉は、それでもぼーっとして席に座っていた。手の動きは遅く、 彼だけまだ食べ終わっていない。
「青葉さんは余裕ですね。テスト前なのにんな遅くまでバイトなんてさ」
 ライドウは、皮肉交じりに言う。木の葉荘のメンバーは、 どれもがあまりテスト勉強していないようなので、 頑張って勉強しているライドウにはあまり面白くなかった。だってそれでも、 自分より成績がいいのだから。
 しかしそう言うと、青葉は首を傾げた。
「…? 何か問題でもあるのか…?」
「……っ! なんだよなんだよっちくしょーっ後で吠え面かくなよっ?」
 ガタンと音を鳴らして席を立つライドウは、そう吠えるとダダダッと自室へ駆けていった。
「………?」
 青葉には、何のことだかさっぱり分からないままだ。
 別段青葉は勉強しないわけではない。毎日こつこつとやっているので、 テスト前だからと特に慌てることもないだけだ。しかしその余裕こそが、 ライドウには癪に障るのだ。
「…まぁ。あいつは今余裕が無くて、気が小さくなってるんスよ。気にしないで下さい」
 ゲンマはそう言うと、ごちそうさま、と手を合わして食器を洗い場に運んだ。 ライドウの分も一緒に。
 そんな様を見て、イルカは羨ましい気持ちになった。
 ゲンマはライドウのことを、よく分かっているのだ。ああいう友人関係はいいな、と思った。
 友人といって思い浮かぶのは、コテツか。
 コテツはいいヤツだ。大事な友人である。だからイルカにとって、 友人が居ないわけではないのだが、それでもあんな風に自分がコテツのことを分かっているかといえば、 実はあまりよく分かっていないかもしれない。大体にして、住む世界が違うように思うほど、 彼はイルカにとって理解し難いことをするのだ。
 そこで、イルカはハッと気付いた。
 もしかしたら、カカシのことを…友人のように思っているのかもしれない。だから、 分からなくてモヤモヤとしたり、傍に居てほしがったり、『彼女』のことが気になったりするのか。
 そうか、と納得した。
 ゲンマとライドウのように、分かり合える友人関係になれればいいのだ。
 イルカはそう思い、洗い物をする為に席を立った。




「管理人さん、ちょっといい?」
 そう声を掛け、コンコンとドアをノックするのはカカシだ。
「はい、どうぞ」
 イルカは教科書から顔を上げた。
 許しを得たカカシは、イルカの部屋に入ってきた。
「何? 世界史の教科書?」
「はい…」
 試験勉強ばかりではなく、学校の授業の勉強もしていた。もうすぐ期末テストがあるし、 学校に行ってない分、自分で勉強するしかない。
「へえ。フランス革命かぁ」
 カカシはイルカの隣りに腰を下ろして、イルカが広げていた場所を見た。
「ひなわくすぶるバスチーユ(一七八九年)ってね。よく覚えてるでしょ」
「あは! カカシさんもそういう覚え方したんですか?」
「そりゃね。年代なんて覚えんの、苦痛ったらなかったよ」
「でも一度覚えると、結構残りますよね。他にもオレ、こういう覚え方で覚えているのありますよ」
「そりゃアンタ現役だし。オレも他にも覚えているのあるよ。いいくにつくろう(一一九二年)鎌倉幕府」
「はくし(八九四年)に戻す、遣唐使」
「遣隋使は?」
「ええっと………あれ?」
「むれなし(六〇七年)渡る遣隋使。勝った」
 そう言って、カカシがまるで子供のように笑った。
「……!」
 今までに見たことのない笑顔だ。こんな顔もするのか。こんな風に笑うこともあるのか。
 それを見ただけで、イルカの胸は勝手に高鳴る。
「しょうがない、世界史もオレがみてあげる」
「…えっ、いいですよ、そんな。大体カカシさんもテスト勉強しなくちゃ」
「いーのいーの。オレはそんなの元からする気無いし。アンタの勉強みてた方がよっぽど有意義」
「…でも」
「いいから。それに勉強してたら変な気起こしにくいから一緒に居れるかなーと」
「え…?」
 変な気、とは何だろう。イルカにはよく分からなかった。
 疑問を浮かべても、カカシはまるで気付かないように、さっさと教科書を読み始めている。
「……」
 このまま言葉に甘えてもいいのだろうか、と迷いはしたが…カカシが一緒に居れると言った言葉が、 イルカの拒む気を失くさせていた。
 一緒にと、カカシも望んでくれている。
(嬉しい)
 カカシが教科書を手に、講義を始める。
 心地良い声のトーン。少し低めでよく通る、いい声だ。

 テスト期間中は部活も無いらしく、カカシは日がな一日木の葉荘に居た。
 イルカは三年生だからと、学校が休みだと言っても別段誰も疑わないままだ。今までも、 当然休講や講義の無い時間帯に木の葉荘に戻ってくる人は居たが、イルカはそう言って通していた。 嘘をつくのは罪悪感があったものの、他にどうすることもできない。
 それでも、こんな風にカカシと過ごす時間が増えたことは、 外に出ることの出来ない胸苦しさを和らげてくれていた。




 金曜日。
 最後のイルカの家庭教師の日がやって来た。
 そして早々と、終わろうとしている。
 チックタックと時計の針は進む。いつもと同じぐらいの時間にやってきて、 いつものように勉強を進めているつもりなのに、今日はいつもより時計の針の進みが速いような気がした。
 今日は最後の日だからと、終了後のお菓子はいつもより豪華だ。なんと有名な洋菓子店のケーキなのだから。
 そして最後だということで、カブトも一緒に三人で食べた。
「うめぇ! これすっげえ美味いってばよ!」
「おいおいナルト、クリーム口についてるぞ」
 バクバクと苺のショートケーキを食べるナルトは、口の端にクリームをべったりとつけている。 イルカの注意でナルトはそれをペロリと舐め取った。そしてあっという間にケーキを食べ終わった。 幸せそうに笑っている。
 それを見ているだけで、イルカもなんだか幸せな気持ちになった。
「あれっ先生、食べないの? オレが食ってやろうか?」
 ニシシシ、と笑うナルトをじとりと見て、イルカは急いでケーキを食べた。
 だけど本当は分かっている。
 ナルトは普段よりもずっと、明るい。それが分かるから、イルカは知らないフリをした。
 そして少しだけ、切なかった。
 そこで、携帯の着信メロディが鳴り出した。
「…あ、と」
 時計を見れば九時丁度。表示を見ずとも相手が分かる。
 イルカはズボンのポケットから携帯を取り出した。やはりカカシだ。
「はい」
 答えながら、窓に近付き外を窺う。
 カカシの頭が見えた。そして、携帯を耳に当てている。
 なんだか不思議な気分だった。
〈あ、管理人さん? オレ〉
「カカシさん、見えてますよ」
〈えっ?〉
 カカシは後ろを振り返り、そして二階の窓を見上げた。
〈あはは、なんか変な感じ〉
「…待ってて下さい。すぐ、行きます」
〈え? ああ…うん〉
「…?」
 切る間際のカカシは、心なしか元気が無いように思えた。
 少し気にはなったが、ともかく行かねば。カカシを寒い中待たせるのは申し訳が無い。
「…じゃ、オレ…行くよ」
 イルカはカバンとマフラーを手に持った。
 ナルトが寂しそうな顔を見せたのは一瞬で、すぐに笑顔になった。
「…ん! イルカ先生、試験頑張れよな!」
「ナルト。お前こそ勉強…これからも頑張れよ」
「おう。イルカ先生、今までありがとうってばよ」
「……」
 イルカはくしゃりとナルトの頭を撫でた。そして下の階へと階段を降りる。玄関で靴を履き、 振り返ればナルトとカブトが並んで立っていた。
「イルカ先生。クリスマス、楽しみにしてるってばよ!」
 ナルトが必死な様子で言った。
「ああ。オレも楽しみにしているよ。料理も楽しみにしててくれよ」
「おう!」
「あ、ケーキは買っておきますから」
 カブトがにこやかに笑った。そしてオレも楽しみにしていますと加える。
「ああ。じゃあ、また」
「またな、先生!」
「ありがとうございました」
 二人に手を振り、イルカは玄関の戸を開けた。

「…遅い」

 すると、憮然とした様子のカカシがイルカにそう声を掛ける。
 イルカは慌てて、カカシのもとへ駆け寄った。
「す、すみませんっ、寒いのに…」
 カカシの傍にいくと、カカシはイルカの手からマフラーをとり、そしてイルカの首に掛けた。
 これはカカシのマフラーだ。今回もカカシは、イルカにつけさせた。
「カカシさんこれは…、えっ」
 寒い中に待たせて、またマフラーも奪ってしまって申し訳なく思うイルカの腕を取り、 カカシは自身に引き寄せた。

「…こんばんは。いつも怖い顔ですね」

 背後から。カブトの声だ。
 カブトはにこやかに笑っていた。
 対してカカシは仏頂面で、冷たい目をカブトに向けている。
「イルカ先生の友達の兄ちゃん、寒いんだよな。オレ、いーもん持ってるってばよ!」
 なのにこの妙な雰囲気を意に介さぬような明るさで、ナルトはカカシとイルカの傍に駆け寄った。 そしてカカシにはい、と手を差し出す。
「ホッカイロ。これ、暖かいってばよ。いつもイルカ先生、寒そうなの気にしてたから、オレ、 これ用意しといたってばよ」
「ナルト…」
 イルカはナルトの優しさに、じぃんと感動した。
 そしてカカシの反応が気になってカカシを見れば、カカシは少しだけ躊躇した後、 ナルトの手からカイロを受け取った。
「…ありがと」
 素直にお礼を言ったカカシに、イルカは少なからず驚き、そして嬉しく思った。
「へへっ。これ、イルカ先生の分」
「ありがとう、ナルト」
 イルカも同じく、カイロをナルトから受け取った。
 じゃあな、と元気に手を振るナルトに手を振り返すイルカを、しかしカカシは強引に引っ張った。 カブトを冷たく見据えながら。
 カブトは―― どこか計り知れぬ笑みを浮かべていた。




 夜道は、凍えそうなぐらい冷たい風が吹いていた。
 道路の端に街灯が一定の距離ごとに備えられているし、立ち並ぶ家の明かりもあって、 そんなには暗く無い。
 カイロで手を温めながら、二人は並んで歩く。木の葉荘までは近い距離なので、 そんなに辛いわけでもない。帰ったら温かい飲み物をカカシに出そうと思いながら、 半分は先程別れたナルトを思っていた。
「…寂しい?」
 不意に、カカシがそうイルカに尋ねてきた。
「少し…」
 また会おうと思えばいくらでも会えるのだが、ああしてもうナルトに勉強を教えることはないと思うと、 寂しい気がする。
「ふぅん…オレは良かったと思ってるんだけど」
「……」
 全くカカシはどうしてこうなのだろう。
 そんな風に思うと、カカシは言葉を続けた。
「…でも、ナルトって子はかわいいね。アンタが可愛がる気持ちは、分かるような気がするよ」
「!」
 イルカは、カカシがそう言ってくれたことが正直驚きであった。そして、とても嬉しかった。
「ナルトはね、ああいう気が利くとこあって、妙に大人な部分もあるし、無邪気で、 生意気なんだけど思いやりがあって…」
「ハイハイ。それ何度も聞いた」
 うんざりした様子のカカシに、イルカは思わずムッとした。 そしてそんなに何度もナルトのことを語ったろうかと恥ずかしい気もする。
 ぷいとイルカが顔を背けると、カカシがまた口を開いて思いがけないことを告げた。
「…オレと一緒なら、またあの家に遊びに行っていーよ」
「え…」
「ただしオレと一緒が条件ね。でないとダメ」
「……」
 カカシは真顔だった。真剣にそんなことを言う。
 どうしてナルトの家に行くのに、カカシが一緒でなければならないのだろうか。不思議に思ったが、 カカシもナルトに会いたいのかな、と思うと納得した。
 そして、それならば…ナルトの家でするクリスマスパーティに、 カカシも一緒にどうかと誘えばいいのだと気付いた。
 そうだ。木の葉荘の皆に尋ねるのも忘れていたが、カカシのクリスマスの予定はどうなのだろうか。 一緒にナルトの家に行けたら、きっと楽しいだろう。それにそもそも、 今の自分では一人でナルトの家になんか行けやしないのだ。渡りに船というやつだ。
「カカシさん…」
 イルカが言いかけた時だった。

「――…カカシくん!」

 女の高い声が夜道に響いた。
 カカシの名を呼ぶ声がする方へ、つまりは前方をイルカは見つめた。
女の影が二人分、こちらに向かって歩いている。近付くにつれ、女達の顔が街灯や家の明かりなどで、 段々分かるようになってきた。
 誰だろう。
 そうイルカが思っていると、

「マキ」

 隣りに並ぶカカシは、一人の女の名を呼んだ。
(…マキ…? どんな、ひと?)
 ざわざわと、イルカの胸が騒ぎ出す。
 カカシが名を呼ぶと、一人の女はイルカとカカシの方へ駆け寄ってた。



(07.05.24up)