第22話「分かってますから」
イルカは朝から洗濯や用事を一通り終えると、一人で勉強をしていた。
そうして参考書を捲っていると、学校の皆はどうしているだろうと、
時折りそんなことを考えてしまう。
木の葉高校に、去年の春から編入してもう約七ヶ月。その間、無遅刻無欠席できたものを、
カジと再会してしまってからは休んでばかりだ。
イルカの両親が、不慮の事故で死んでから、イルカは親戚の家に居候することになった。
夫婦に、子供が一人。イルカより二歳年上の少年で、
小さい頃から割合近いその親戚の家とは懇意にしていたから、イルカも『カジ兄ちゃん』
と呼んで懐いていた。
カジは、優しかった。
物静かな男で、イルカの家族がカジの家に訪れると、両親同士が話し合っている間、
カジとイルカは一緒に遊んでいた。
遠い記憶。
イルカはカジが好きだった。確かにそんな記憶がある。両親が死んで、
一緒に悲しんでくれたのもカジだった。うちにおいでと、親が言う前にイルカに言ってくれた。
カジの家にご厄介になり、空き部屋の一室をイルカに与えられた。六畳の部屋で、
イルカに不満は勿論無かった。そのイルカの部屋の隣りがカジの部屋で、
伯父夫婦の寝室は下の階だった。
世話になる当初、カジはよく、『ずっとここに居てくれ』と言ってくれていた。嬉しかったが、
しかしイルカはそういう訳にもいかないと思っていた。だから、
高校を卒業したら出て行こうと密かに考えていた。
(…カジ兄…どうして…)
未だによく分からない。
過去を思い出すと、あのカジがまさかあんなことを自分にしただなんて未だに信じられないぐらいだ。
でも事実、自分の背中には痕が残っているし、恐怖と共に覚えてもいる。
あれは…いつ頃だったろうか。
そう、あれは中学に入り、暫くした頃…暑い夏だった。
蒸し暑くて中々寝付けずにいると、隣の部屋のカジが、壁をコンコンと鳴らしてきた。
カジはよくそうやって、イルカを自室に呼んだ。そして一緒にゲームをしたり、
お菓子を食べたりしたのだ。
だからイルカは、てっきりそういうのだろうと思って、カジの部屋に入った。
だが……――
「……ッ!」
イルカは突如背中に起こった激しい痛みに、背を弓なりに逸らし、畳の上を転がった。
〔ぶり返し〕だ。
「……ッ…、…ハッ…ッ」
痛い。苦しい。―― 怖い。
(助けて…カカシさん…!)
だけれども、いつものようにあのおまじないが中々思い出せなかった。白い靄の向こう、
カカシと紅の姿が見える。
「…嘘つき…」
…なんて。責めることは出来ない。悪いのは自分だ。
引かない痛みに、もう嫌だと思った。
もう、全てが嫌な気持ちだった。
痛みが引いてからも勉強をする気にならず、イルカは廊下の拭き掃除でもして気分を変えようと、
バケツと雑巾を持って上がった。
「つめたっ」
分かっていても、バケツに張った水の中に手を入れると、つい言ってしまう。
雑巾を絞り、端から拭いていった。
するとそこで、アスマが部屋から出てきた。
「お、イルカ。悪いな…オレも手伝うぞ」
「いいえ、これも仕事ですから気にしないで下さい」
「だけど手が冷てぇだろう。さっさと終わらせちまおうぜ」
アスマはそう言うと、自室に一旦戻り、そして布切れを手に出てきた。
「アスマさん、そんな…」
「いいって。どーせ暇だったし」
そしてバケツに浸けると、うおっ冷てぇ、と叫ぶ。
イルカはつい、笑った。
笑ったイルカの顔を見て、安心したような顔をしたアスマだが、
イルカはその表情の意味を考えはしなかった。
二人でする雑巾がけは早かった。
終了すると、アスマは自室にイルカを招いた。
「丁度良いモンあるんだよ」
その誘いの言葉に、何だろうと思って部屋に入ると、ペット用ケージが見えた。
そしてそのケージの中からアスマが取り出し、ほれ、と見せられたのは、なんと子猫だった。
「わあ…!」
真っ白な子猫は、アスマの手の平に収まっている。文句無しに可愛い。
「どうしたんですか、これ」
イルカは嬉々として、その子猫をアスマから譲り受けた。子猫は、
イルカの両手の平にちょこんと座っている。
「いや、ダチが旅行で居ないんでよ、預かってくれってさ。ま、明日帰ってくるからそれまでの間な」
そういえば昼頃、アスマに来客があったが(イルカはインターホン越しで応対しただけ)
それはこの子猫の飼い主だったのか。
「へえ」
すごく可愛いと、イルカの頬はほころび、つい頬擦りしてしまう。
「やっぱお前、動物好きか」
「はい! 昔から憧れていたんですけど、中々飼えなくて…ウチの両親は死ぬのが辛いからってダメだと言ったし、
借りてたアパートはペット禁止だったし」
「ここじゃいいんだぞ。何かいいのが有ったら遠慮無く飼えよ」
「え…、そんな」
まさか飼っていいと言われるなんて思ってなかったから、イルカは驚いた。
「まぁ今はそれ所じゃないだろうがな。試験終わってからでもいいんじゃねぇ?」
「……」
それは。
試験を終えても、ずっとここに居ていいと言われているのだろうか。
勿論アスマはオーナーではないが…それでも嬉かった。
子猫とじゃれるイルカを横目に、アスマはこっそり安堵の息を吐いた。
最初頼まれた時は面倒臭かったが、これがイルカの気晴らしになればいいと思って引き受けた。
この様子なら、むしろ暫くの間預かってやってもいいぐらいだ。
満足げにイルカの様子を見つめた後、アスマは窓の外を見つめた。
イルカは暫し子猫に夢中になっていたが、ふと、アスマが窓の外ばかり気にしていることに気付いた。
「……?」
どうしたのだろうと思っていると、アスマの顔が強張った。
一体何が。
イルカは気になって、アスマの背後からこっそりと窓の外を覗いた。
「……!」
すると、カカシと紅が一緒に居るのが見えた。
紅がカカシにしがみ付いていて、そして…カカシが紅の両肩を掴み。
―― 紅に、キスをした。
ひとつ屋根の下2 第22話「分かってますから」
にゃあ、と小さく可愛い声で子猫が鳴く。
カリ、とまだ幼いけれども立派にある爪で、軽く戯れるように己を抱くイルカの手を掻いて、
遊んでと主張する。
「…よしよし」
力無く座り込むイルカは、先程カカシが「ただいま」と玄関先で言ったのが聞こえていたが、
アスマの部屋から動かなかった。
部屋の主はすごい勢いで出て行ったが、何処に行ったのかイルカは知らないし、
考えようともしなかった。
にゃあ、にゃあ。子猫が鳴く。
お腹でも空かせたのだろうか。
「ミルクは…」
ケージの近くにスーパーの袋があって、その中に紙パックの牛乳があった。
ケージの中に置かれたミルク用皿を出して牛乳を注ぐと、子猫はそれをペロペロと舐めだした。
イルカはそれを、ぼうっと見ていた。
やがて満足した子猫は、まだ更にミルクが残っているのにふいと皿から離れた。
「…もういいのか?」
子猫を抱きかかえ、その毛並みを撫でるととても気持ちがいい。
そういえば、アスマは何処へ行ったのだろうと、段々イルカは思い始めてきた。
「…あれ、もうこんな時間?」
くるっと見渡した室内は既に薄暗く、壁に掛かった時計は五時を回っている。
そろそろ夕食の準備をせねばならない。
イルカは名残り惜しいものの、子猫をケージの中に入れ、そしてアスマの部屋を出た。
階段を降り、台所へ行く前に自室に寄ってドアを開けると、
「……ッ!?」
驚きの余り目を見開いて息を呑んだ。
そこには、カカシが居たのだ。
畳の上に胡坐を掻き、先程イルカが勉強していた参考書を捲っていた。イルカが入ってくると、
その手にした本を机の上に置く。
「…あ、管理人さん帰ってきた。何処行ってたの?」
「………」
カカシは暢気な様子で尋ねてきた。
それがイルカの癇に障った。
無性に、今目の前に居る男が腹立たしくて仕方無かった。
「…どこだっていいでしょう」
自分でも思ってもみないほどに、低く棘のある声が出て、イルカは思わず口元に手を当てた。
カカシも驚いている。
「…どうしたの? 何かあった?」
カカシは胡坐を掻いて座っていたが、身を起こしてイルカに近付いてきた。
それをイルカは、嫌だ、と思った。
カカシに触られたくない。
「何も無い、です」
「そんなことないでしょ。ね、どうしたの?」
引き下がろうとしないカカシに、苛立ちばかりが増す。
大体、どうしたなんてこの男に尋ねられたくなどなかった。
「…本当に、何でもないです」
重ねて言うと、カカシはやっと「そう」と言った。
それもまた、腹が立つ。
カカシはそこに立ったまま、俯く。さっさと出て行ってくれないだろうかと思っていると、
カカシは屈み、ビニールバッグを手に取った。
ポールスミスのビニールバッグ。特徴的な色合いのストライプ柄なので、
ロゴを見なくてもすぐに分かる。
カカシはそれを、イルカに差し出した。
「…これ、管理人さんにプレゼント」
そして少し照れ臭そうにして、そう言った。
「…オレに?」
イルカは思ってもみなかったプレゼントに、目をぱちくりと瞬かせた。
カカシは少し面映そうに笑った。
「うん。今日ね、見掛けて管理人さんにあげたいってすごく思ったんだ」
「……オレに」
カカシが今日、自分のことを考えていたなんて。
そんな風に戸惑っていると、カカシは心持ち心配そうに尋ねてきた。
「…管理人さん、嬉しくないの?」
そう問われても、頭が上手く働かない上に、どうして自分にとの困惑が深まるばかりだ。
返答に窮していると、カカシは頭を掻いた。
「あれ? 紅は喜んでくれるって言ったのに」
「……!」
ボソリと呟かれた声は、しかしイルカの耳はしかと拾い上げた。
「…紅さん、が?」
「そう。誕生日じゃないけど、あげたら喜ぶって言ったから、オレ買ったんだ」
頭の中が、急速に冷えていく。
何だ、それは。
「ああ、そうだ。紅に、管理人さんにちゃんと言うように言われたんだけどさ、オレと紅のこと。
あのさ…」
「いえ、いいです言わなくて。分かってますから」
最後まで聞く気になどならず、イルカは遮る為にそう言った。
すると、やっぱりね、とカカシは笑った。
「オレもわざわざ言わなくっても、管理人さんは分かってると思ってたよ」
良かったと言って笑う。
そんなカカシを、これほど憎く思ったことはない。
そして、こんな終わりを迎えるとも思っていなかった。
ずっと自分の気持ちがよく分からなくて、『彼女』の存在が気になるのは、
ただ恐怖から逃れる為に依存しているのだと思っていた。だから特別な相手を見つけて欲しくなかったのだと。
カカシのことは、友人になりたいと思っているのだと。
だけど違った。
自分の本当の気持ちに、これ以上無いぐらい最悪な場面で――
カカシと紅がキスをしている所を目撃して気付いた。間抜けな話だ。
キスシーンを見て、不思議と胸が痛いとかそういった感覚は無かった。
ただ、何も感じなかった。
衝撃の深さに、心が壊れてしまったのかもしれない。
好きと告げてもらっている間に気付けず…もしかしたらその時はまだ好きではなかったのかもしれない、
いつ好きになったのかは分からないのだが、それにしたってこんな最悪な形で知ることになるなんて、
自分で自分の間抜けさに腹が立つ。
分かっている、悪いのは自分だ。
それにしたって、この仕打ちはあんまりじゃないだろうか。
何のつもりなのだと、紅に対しても罵りたい気持ちだ。
こんな…―― 何かの憐れみのつもりなのだろうか。
キスの目撃には何も感じないぐらい真っ白だったのに、今は腹の奥に灼熱の炎が燃え盛っている。
好きだとさっき気付いたばかりの人を、ほんの僅かの間にこれほど憎く思うだなんて。
「…これは受け取れません」
そうハッキリ断ると、カカシが固まった。
「……え…?」
「オレにこれを受け取る理由なんて無いです」
「……、…でも」
「いいです。要りません」
カカシの瞳が揺れている。哀しげに。
どうしてだろうか。これほど憎々しく思っているというのに、その目を見ると胸が痛くなってくる。
「…っ、すみませんっ」
イルカは堪えきれずに、部屋を飛び出した。
ピンポーン、という来客を告げる音に、寝転んで雑誌を捲っていたマキは身体を起こした。
覗き穴から誰かを確認すれば、それはいつものようにここへとやってくる慣れた男だった。
「…カカシくん!」
その姿を確認すると、マキは一気に頬をほころばせ、玄関の戸の鍵を外し、開けた。
「どうぞ上がって」
嬉々として声を掛けるマキに反して、カカシはどこか薄暗い様子だ。
「……?」
マキは、どうしたのだろうと思いながら、ともかくカカシを家に上げた。
カカシの来訪に、チャッピーは駆け寄って嬉しそうに尻尾を振る。
そのチャッピーをカカシは抱き上げ、胡坐を掻いた足の上に乗せた。
普段はあまり問うたりしないマキだが、流石に常ならぬ雰囲気のカカシを放っておけず、
躊躇いがちに声を掛けた。
「…何かあったの?」
「……うん、ちょっと」
カカシは自分を見つめてくるマキを見ようとはせず、ずっとチャッピーを構っている。
しかしそのままでも、カカシはやがて話し始めた。
チャッピーだけでは癒しきれない。
そして誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「…今日、あのひとにプレゼントを買ったんだよね。喜んでくれるかなとか思って」
「……」
あのひと。
それが誰を指すのかなど、マキにはよく分かっていた。
カカシが好きな人―― イルカだ。
「だけどさ…、要らないって言われて、受け取ってもらえなかった」
「そんな…!」
マキはつい、声に出してしまった。
カカシがあまりに哀しそうだったから。好きな人が、そんな酷いことをされて、
冷静でなんていられない。
マキが望んでも得られない、カカシの愛を一身に受けるイルカが羨ましくて、妬ましくもあったが、
今は憎くて仕方が無い。
「そんなの、酷い。私だったら、カカシくんがくれる物ならなんでも嬉しいよ!」
眉を寄せ、怒っているのか悲しんでいるのか、その狭間にあるような表情で、
マキはカカシの膝に手を置いた。
カカシはそこで、やっとマキと目を合わせた。
カカシの目が、哀しい色をしている。
「別に酷くなんかないよ。あのひとは何も悪くない。…ただオレは…、
あのひとの嬉しそうな笑顔が見たかったんだ。それだけで良かったんだけど…、難しいな」
「…カカシくん」
そう言われると、マキにはもう他に言葉は見つからなかった。
そして、そこまで想われている『イルカ』が。それでもカカシを拒む『イルカ』が憎くて、
許せないと思った。
(07.06.28up)