第24話「管理人さんは、オレが守るから」
今から六年前の夏の日に、何かが狂い始めていた。
ある夜、呼び出しに応じてカジの部屋に行ったイルカは、そこでカジであってカジではない男を知ることになる。
そう、そこに居たのは、イルカの知る優しい従兄弟ではなかった。
『―― お仕置きが必要だね』
彼はそう言った。
イルカには最初、何のことかさっぱり分からなかった。
ただ、友達と仲良くしていただけ。
しかしそれが気に食わないという。
カジはイルカを後ろ向きに座らせて、着ていた寝巻きを捲り上げて背中を出させ、
鞭のようなものを手にした。
イルカは、何かの冗談だと思っていた。その鞭が自身の身を打つまで。
痛みによるものよりも、あのカジが自分に対してそういう行為を行ったということの方が、
衝撃が強かった。
こんなこと、誰にも言えなかった。
逃げる場所も無かった。
一度、家出をしようとして、カジに見つかって酷い目に遭わされ、逃げられないと思った。
毎夜のことではない。彼の機嫌を損ねた時だけ。
それでも毎夜が恐怖の日々であったし、屈辱でもあった。
誰かと仲良く話しているところを見られると、機嫌を損ねる。
カジの言うことを聞かないと機嫌を損ねる。終には何が機嫌を損ねるのか分からなくなった。
だから何をするのも怖くて。息苦しくて。
そんな風に、イルカには薄暗い日々が続いた。
永遠に逃げ出すことが出来ないのではないかと思った。
いっそ。
いっそこの優しい伯父夫婦に話せば…と何度も思った。
だけれども。
カジはそんなイルカの心情を見越してか、『両親は知っているよ』とある日イルカに絶望を告げた。
誰も居ない。
誰も頼らない。一人で生きていこう。
そう心に決めた。
カカシのことで頭の中をいっぱいに埋め尽くしているようで、
それでも恐怖が未だに身体を包んでいる。時折り手足が強張ってもつれそうになる。
それでも前へ。
カカシのもとへ。
いつの間に、こんなに好きになっていたのだろう。
カカシに嫌われることの方が、カジよりも怖い。
好きだ。
もう、失いたくなんて無い。
カカシのことだけは。
『―― かわいそうなイルカ。お前のことなんて、誰も好きなんかじゃないよ』
「……ッ」
その時脳裏を掠めた声に、イルカの足にブレーキが掛かった。
心音が嫌に早い。
ぞわぞわと、足元から不安を帯びた震えが勝手に走る。
もう嫌だ。
一体いつまで支配し続けようとするのか。
さっきやっと、吹っ切れそうな気がしたというのに。
…否。吹っ切るのだ。
こんな過去から。
木の葉荘のすぐ近くに在る、木の葉大学。広大な面積に広がるキャンバスのその正門までの距離は、
徒歩でも約十分程度である。大学の塀までなら三分程度だ。
イルカはカカシを探す為、大学目指して駆けた。
ひとつ屋根の下2 第24話「管理人さんは、オレが守るから」
時間は少し戻る。
平日の弓道部の部活は、三時半から始まる。
カカシはよく入り浸る助教授の研究室から頃合を見計らって退室し、部室へと向かった。
「カカシさん!」
するとそのクラブハウス前で、見覚えのある男がカカシの名を呼び、手を振った。
(見覚えがある…気がする)
そんな風に男のことを眺めていたカカシは、その男が駆け寄ってきて間近に見ると、
やっと思い出した。
(そうだ。管理人さんの友達だ)
頭がいいはずなのに、あまり他人に興味を抱かないカカシは人のことを覚えることもあまりない。
それでもイルカの友人だったので、それなりに記憶にあった。
「カカシさん、お久しぶりです。…ってほどでもないですかね?」
イルカの友人、コテツは明るく笑った。
「どうしたの? こんなとこで」
カカシはコテツがこんな所に居ることが気になった。イルカに何かあったのではないかと、
そう思ったのだ。
「カカシさんに会いたくて…それでカカシさんが弓道部に所属していること思い出して、
ここで待っていたんです。ああ良かった会えて」
いやーコノ大生にじろじろと見られて緊張してたんですよー、と、また話が脱線仕掛かる。
そこをカカシは「で、何?」と戻させた。
「そうそう。…イルカのことで、話があったんですけど…。だから木の葉荘に話をしに行くのはマズイかな、
と思ってこっちに押しかけちゃいました」
「…管理人さんに何があった?」
やはりイルカのことだと、カカシはコテツに詰め寄った。
「うわっ、美形のアップはきついっす」
するとコテツはそんなことを言って、一歩下がった。そして「うひゃぁ、すごい迫力」と笑う。
「……」
カカシの苛々ゲージが上昇していく。
「…なんて冗談は置いといて、こっちへ」
コテツは急に真面目な顔になって、カカシの腕を引き、人目につかないような建物の影へと移動した。
「早く教えて」
カカシにとっては、移動する時間さえも惜しかった。何故ならイルカの話で、
そして重要な話のようなのだから。
イルカの身に何かあったのではと、不安になって気が急く。
カカシのその不安は、果たして的中した。
「…カカシさんは…、ここの所、イルカが学校に来てないことをご存知ですか?」
「…え…?」
「……」
イルカが学校に、あまり行ってないような様子なのは知っていた。だが、
それは登校日が少ないせいだと思っていた。そして全く行ってないわけではないだろうとも、
思っていたのだ。しかしこのコテツの口ぶりでは、そうではなかったようだ。
「…登校日にも、行ってないの?」
カカシは確認をした。
コテツはコクリと頷いた。
「…なんで?」
だって。いつもイルカは楽しそうに学校での話をしていた。
学校が好きなのだと思っていた。
…けれども。そういえば、最近は全く話題にしていなかったのではないだろうか。
「……理由は…ハッキリとは分からないんですが…」
コテツはそこで、口を濁した。言い辛そうな口ぶりに、カカシは焦れた。
「何? 知ってるんでしょ」
「…その…、オレもこのことは…果たして誰かに言ってもいいのだろうかって悩んでて…、
でもカカシさんなら恋人だし…いいのかな、と…」
「いいに決まってるよ。早く言って」
カカシは断言した。
そして『恋人』というコテツの誤解からくる言葉に内心喜んだ。早く本当にそうなりたいものだ。
コテツは、カカシが言い切ったことで幾分安堵したようだ。それでは、と口を開いた。
「実は…三週間ぐらい前に、イルカの従兄弟と名乗る男が現れまして」
「…ッ!」
カカシは目を見開いた。
恐れていたことが、既に起こっていたのだ。なんてことだろうか。
あの、カジという男のことで間違いないと思うが。
「…それって、黒縁メガネの平凡な男?」
「ああ、そうですね…特に特徴の無い男で…黒縁メガネをかけてました」
やはり、カジだ。
カカシはほんの数分会っただけであったが、相手が相手だったのでその顔をよく覚えている。
「カカシさんもあのひとのこと、知ってたんですね。じゃあ、本当に従兄弟だったんだ」
コテツはどこか釈然としない様子だった。
「…何か変なことでも?」
「いえ……、その…、従兄弟のひとを見た途端、イルカの様子がおかしかったんですよ。
尋常じゃないっていうか…」
「尋常じゃ…ない?」
「はい。まるで怯えているようでした。あんなイルカ、見たことなくって驚きで…。それに、
そのひとから一気に逃げ出しちゃったし。だからオレ、
そのひとが従兄弟だって言っても嘘じゃないかと思ってたんですけど」
イルカが、怯えていた。
あの男を見て。
やはりあの男は…イルカにとってよくない男だったのだ。勘が当たっていた。
そして、最近のイルカの様子がおかしかったことが合点いった。
イルカに対して、どうしても聞けなかったが…。
「それで、イルカはその日から学校に来なくなったんですよ。一応病欠ってなってるんですけど、
あまりに長いから皆も心配してるし」
そりゃあ、何週間も病欠だと何の病気かと思って当然だ。
「オレはその従兄弟のひとから、イルカの住所とか訊かれたんですけど、
何か怪しいなと思って答えなかったんです。そのひと、
オレ以外のひとにも声掛けたみたいなんですけど、イルカが木の葉荘に住んでるって知ってるのはオレぐらいだから」
ここでコテツは、「それがおかしいんですよ」と声を潜ませた。
「…何が?」
「翌日ちょっとした話題になったんですよね。イルカのことを訊いて回る男がいたってので。
当のイルカは欠席だし。それに、その声を掛けたっていうのが、
ふつーの男だったっていうのと美形な男だったっていうのと二通りがあって、
…なんか不気味じゃないですか?」
「…管理人さんを探している男が二人居るっていうこと?」
「そうなんですよ。考えられるのは…従兄弟のひとの友達で、一緒に探してもらっているとか」
「…ミズキか?」
「心当たり、あるんですか?」
「ああ。多分、あいつ」
確かに美形という部類だろう。カカシはそれで納得した。
それで話を進めたいのに、またもコテツは脱線をさせた。
「そういえば! その同じ日に、カカシさんが高校前に姿を現したって女の子がきゃあきゃあ言ってましたよ」
「…え?」
しかしそう聞いて、カカシはちょっと待て、と思う。
カカシが木の葉高校の前にここ最近で通ったのは、イルカが携帯に電話をしてきた日だ。
「! そうか…」
あの電話は、やはり間違い電話なんかじゃなかった。イルカが発信したのはSOSだったのだ。
何てことだろう、嫌な胸騒ぎがしていたというのに。
そして、もう一人イルカを探していたのは、自分の事だと分かった。
だけどコテツには言わない。そんなことはどうでもいい話だったから。
「分かった。ありがとう」
これで話は終わりだと思ったカカシを、しかしコテツが引き止めた。
「ちょ、待って下さい、まだ話は終わってないんですって」
「え?」
「今日ここへ来たのは…、さっき、その従兄弟のひとが校門のとこで待ち伏せしてて…
オレやばいって思ったから咄嗟に隠れて裏門から出たんですけど。でも妙に不安になっちゃって…」
コテツの不安が伝わったせいか。それともカカシの直感が働いたのか。
とても嫌な予感がする。
ざわざわと嫌な風が身体にまとわりついているような、気味の悪さ。
友人を心配するコテツに、カカシはまた断言した。
「大丈夫。管理人さんは、オレが守るから」
「……」
「じゃ。ありがとう」
カカシはそう告げると、その場から駆け出した。
一方コテツは。
「っくはーっ、カッコイーッ!」
不安が一気に吹き飛んだというか、ミーハー全開で喜んだ。
ゲンマとライドウは、木の葉商店街を通り抜け、木の葉荘へと帰路を歩んでいた。
日も暮れ掛かる頃合。ゲンマは、一コマ目に講義に出て、昼から数時間、
モデルのバイトに行っていた。そこにライドウが覗きに来ることは結構あることだった。
今や事務所関係者などには馴染みになっている。
「あーあ、今日はナナちゃん来てるかと思ったのによ。残念」
「お前な…そーいう不謹慎な理由で神聖な仕事場に来るのいい加減にやめろよ」
ライドウのぼやきにゲンマが小言を言った。
「んだよケチ。折角またとないコネなんだから使わない手はないだろ。お前はいいよな、
あんな可愛い子達と一緒に仕事が出来てよ。オレなんて、今のバイトはむさッ苦しいのしかいねぇし」
そう愚痴てライドウは溜息を吐く。
ゲンマが現在よく行くことになる撮影所の近くに、ライドウのバイト先がある。
それは宅急便会社の宅配物仕分け作業だ。今日のバイトは無かったが、
暇だったのでゲンマのバイト先を覗きに行っていた。
「そんなこと言ってても、どうせお前なんてロクに話しかけたり出来ないくせに」
ゲンマはサラリとライドウの痛い所を突いた。かわいいだ美人だとゲンマのモデル仲間に対してはしゃいでみても、
実はシャイでロクに話もできない。強面だが純情なのだ。
「う…うるせぇなっ!」
ライドウは真っ赤になって、ゲンマよりも歩調を速めた。
そうしてズンズン進んでいると、前方に一人の男がキョロキョロと辺りを見渡し、
困り顔で溜息をついていた。
平凡な顔立ちに、黒縁メガネの男。歳も自分と同じぐらいだ。
何だろう、とライドウがじっと見つめると、男はおっかなそうにして視線を逸らした。
「…やな感じ」
一見強面のライドウは、こういう反応をされることはままあることだ。
しかしされるとやはりいい気はしない。折角声を掛けてやろうかと思っていたが、
そのまま横を通り過ぎることにした。
全く、面白くない。
「あーあ。早くイルカの飯食いたいな」
まだ食事の時間には早いが、これからの楽しみといって真っ先に思いつくのはそれだ。
「ったく。ゲンマんとこ遊びに行かないでイルカとでも遊びに行けば良かったぜ」
そう、ぶつぶつと愚痴を零していると。
黒縁メガネの男が、突然ライドウに食いついてきた。
「―― あっ、あのっ」
「…あ?」
「突然すみません…、その、イルカって…聞こえたんですけど…、…海野イルカのことでしょうか」
「…アンタ何?」
ライドウは、訝しい目で男を見た。
いきなりイルカのことを問うてくるが、初めて見る顔であるし、歳も同じではなさそうで、
友達とも思えない。
そんな風に思っていると、
「オレはイルカの従兄弟で…海野カジといいます」
人の良さそうな顔で、男はそう名乗った。
(07.07.17up)