ひとつ屋根の下2

第25話「やっと会えた」





 イルカは、カカシが居るはずの弓道場へと向かった。
 一度行ったことがあるが、それでも広いキャンパス内なので、 うろうろと朧気な記憶を頼りに探した。そうして、弓道場に漸く辿り着くことができた。
 イルカは弓道場を目の前に、ゴクリと唾を飲んだ。
 姿が見当たらないが、ここにカカシが居る。
 …そして、ミズキも居るかもしれない。
 どちらもイルカを躊躇させる。勢い込んでここまで来たが、果たして迷惑な行為ではないだろうか。 それに既に練習を始めているのなら、部外者の自分が入るわけにもいかないのでは…と、 今更ながら躓いた。
 そんなイルカに、声を掛ける女が居た。

「どうしたの? 誰かに用?」

 振り返ると、何とそれはマキという女だった。
 夜に一度会ったきりだが、それでも覚えている。やはり、美人なひとだと思った。
 マキは振り返ったイルカの顔をじっと見つめた。
「…あれ? アナタ、カカシくんのお友達じゃなかったっけ」
「……は、はい」
 複雑な思いを抱えながらも、イルカは返事をした。
「やっぱりそうだった。私のこと、覚えてる?」
「はい」
「どうしたの? カカシくんに用とか?」
 初対面の時でも思ったが、明るくて、感じのいいひとだ。
「…はい。でも、練習中ですよね…」
「もう来てるかな? 待ってて、呼んできてあげる」
「あ…、その、」
「いいからいいから」
 にこっと笑って、マキは弓道場へと向かおうとした。しかし足を止め、イルカを振り返る。
「…そうだった。ごめんなさい、失礼だけどお名前は?」
 そういえば、先日会った時は、名乗るタイミングを失ってそのままだった。

「海野イルカです」

 しかしそう名乗れば。
 マキの表情がサッと変わった気がした。
「え……、海野…イルカ…?」
「はい」
 どうしたのだろう。やっぱり変わった名前だろうか。
 そんな風に思うイルカを、マキは凝視した。
「…あの?」
「あっ、ごめんすぐ呼んでくるから」
 マキは弓道場へと入っていった。
 イルカは待つ間、どうしようもなく襲ってくる不安感に押し潰されないように足を踏ん張った。
 そうしているうちに、マキが姿を現した。一人だ。
「カカシくん、まだ来てないけど…」
「そうですか。ありがとうございました」
 ペコリと会釈をし、ではどうしようか…と思っていると、マキが話しかけてきた。
「…ねぇ。失礼だけど、アナタ……男、よね?」
「え…ええ」
 そんなことを突然問われて、イルカは面食らった。
 女に見えるのだろうか。髪が少し長めだからだろうか。ともかく恥ずかしい。
「か…カカシくんから…昨日、何かプレゼントされた?」
「え…っ!?」
 どうして、それを。
 イルカが驚いた顔をすると、マキも目を見開いた。
「…嘘…そんな…」
 明らかにショックを受けている様子のマキに、どうしてプレゼントのことを知っているのか聞こうとした。 けれども、イルカが口を開くより先に、マキが凄い形相で睨みつけてきた。
「アナタが…やっぱりイルカなんだ…。今更カカシくんに何の用? あれだけ傷つけといて…!」
「…っ!」
 イルカは胸を突かれる思いだった。
「もうカカシくんには近寄らないで! アンタ好きでもなんでもないんでしょう? 私は好きよ。 大好き。カカシくん、もうアンタなんて嫌になったって言ってたよ。昨夜私の家に来たし… そして私と寝たんだから!」
 まくしたてるようなマキの怒声に、イルカは強い衝撃を受けた。目を、大きく見開く。
「…嘘……」

 カカシが、そんな。
 嘘だ、信じない。
 …けれども、カカシが昨夜どこかに行っていたのを知っている。
 カカシが、この女にオレのことを、嫌いになったって言って。
 ……寝た、って…。

「う…嘘だッ」
 イルカはそう叫ぶと、くるりと踵を返して駆け出した。




ひとつ屋根の下2 第25話「やっと会えた」





 カカシはともかくも、イルカを探すことにした。
 この時間なら、木の葉荘に居るはずだ。
 そう思ったのに、木の葉荘に戻ってもイルカは居なかった。
 しかも、他の住人も居ない様子だ。
「…ああもう。前もこんなだったよ。…ええと」
 イルカの行きそうな所。買い物だろうか。
 しかしそういえば、イルカはここの所買い物には行かず、宅配を頼んでいた。 買い物は大変だからととくに不思議には思わなかったが、今思えばそんな風にイルカは変化を示していたのに。
 無理矢理にでも聞き出せばよかった。そうすれば、こんな長い間苦しめることもなかったのだ。 あの男を二度とイルカの前に姿を現せないようにした。どんな手を使っても。
 イルカが、ずっと前にだが、縋り付くような目を向けたことを思い出す。 ――― 痛みに震えていたイルカを。
「くそっ」
 あの男が付けた傷なのか。だったら何倍もの傷をあの男にも刻んでやる。
 イルカは何処に行ったのだろうか。
 そういえば…コテツは、あの男がまた学校に現れたと言っていた。
(もしかして、管理人さんを連れ去ったのか?)
 想像しただけで、目の前が怒りで真っ赤になる。
 だが必死に、自身に落ち着けと念じた。イルカが絡むと冷静さを失い易くなる。
 そうだ携帯に…と、カバンの中を探っていると、がやがやと人の話し声が外から聞こえてきた。
 カカシは玄関の外をひょこりと顔を出して覗いた。

 すると、そこにはライドウとゲンマが居た。

「あれ、カカシさん。今日は部活無いんスか?」
 カカシの焦りなど何も知らぬライドウは、笑ってそう言った。
「……まぁね。ところで誰も居ないようなんだけど、管理人さんは?」
「イルカ? オレが出た時は居たけど…買い物か何かっスかね? ああ、そうそう、 イルカって言うとさっき変な奴に会いましたよ」
「…変な奴?」
「お前は変な奴なんて思ってなかったろーが。知らない奴は先ず疑え」
 ゲンマが冷めた目でライドウに突っ込むと、ライドウは赤くなった。
「な、何だよるっせぇな。ありゃ新手の詐欺ってか? イルカの従兄弟名乗るなんて…」
「従兄弟!?」
 ライドウの言葉に過剰に反応を示すカカシを、二人はおや、という顔で見た。
「…知ってるんですか、カカシさん。ってことはあの男、本当に従兄弟だったとか?」
「…いや…、ともかくその男のこと、ちょっと詳しく話してよ」
「オレが独り言でイルカの名前を出した時に、丁度近くに突っ立ってたその男が話しかけてきてね、 なんでもイルカの従兄弟でイルカを探しているから居場所を教えて欲しいって言ってきたんですよ」
「教えたのか?」
「いや…ライドウはうっかり信じそうになってたんスけど、オレが口を押さえまして。 だって従兄弟なのに居場所知らないってのもおかしな話でしょう? そう突っ込むと、 その自称従兄弟は口を噤んだんで放ってきちまいましたが」
「そう…。そいつ、何処で会った?」
「すぐそこの、商店街を抜けた辺りっスけど」
 ともかく、まだイルカを見つけていないようだが、イルカが不在なのがやはり気に掛かる。 イルカは極力外に出ようとしなかったのだ。
 イルカを探すより、その男を見つけて二度と姿を現さないようにさせるべきか。 すぐそこにさっき居たというのなら、その男の方が先に捕まえることができそうだ。
 ライドウが教えると、カカシはすぐに駆け出した。
「……何だ?」
 ゲンマとライドウは、一体何が起きているのかと顔を見合わせた。




 イルカは我武者羅に走っていた。
 最初木の葉荘を出た時は、カカシに会いたくて。
 カカシに会って、謝りたくて。そして、許してくれたら――許してくれなくても、 この想いを告げるつもりだった。
 だけど、今は。

『アンタなんて嫌になったって言ってたよ』

(…嘘だ…)

 確かに酷いことをした。嫌われても当然のことをした。
 それでもカカシは、自分を嫌いになったりしないと心の何処かで期待していた。

『昨夜私の家に来たし…そして私と寝たんだから!』

(…信じたくなんかない…!)

 胸が潰れそうだ。
 まだ真実かどうかも分からないのに、涙が溢れてきそうになる。
 駆ける足は、木の葉荘に向いていたが…イルカは木の葉荘の近くで足を止めた。
 帰りたくない。
 あんなに会いたかったはずのカカシに会うのが怖い。
 最初の頃、カカシはイルカのことを冷たい目で見たことがある。けれどもそれは最初だけで、 それからは優しい目しか向けられなかったから、その冷たい目を忘れていたのに、今思い出せる。
(あんな目で…見られたら…)
 想像するだけでこんなに苦しむ胸は、本当にそうなったら潰れてしまうと思った。耐えられない。 最初の頃は耐えられたのに。
 しかしこのまま外にいるのも恐ろしい。
 八方塞の状況だった。
 そんな時だった。

「――― イルカ…やっと見つけた」

 背後から。
 恐れていた声がする。
 振り返りたくはなかった。
 けれども過ぎる恐怖が、イルカの首を後ろ向かせた。

「……ぁ…」
 目を、大きく見開き。
 呼吸が止まる。

 足はもう動かない。恐怖に崩れ落ちそうになるのを堪えることで精一杯だ。

 ――― もう。
 二度と会わないでいられるように、祈っていた、のに。

「…やっと会えた」
 夕暮れの街角に、もう逃げないでと笑いかける従兄弟の姿。
 がくがくと震えそうになる手足を、それでももがくように動かして逃げようとした。
 だけれども。
 その腕を、捕まれてしまった。
「イルカ…待ってくれ。話を聞いてくれ」
 カジが掴んだ腕の力は、それほど強くはなかったのかもしれない。元来非力な男だ。
 しかしイルカはその拘束を解くには、あまりに怯えすぎていた。
「去年も…お前をやっと見つけたのに逃げられた。何処の高校に行ったかも、 何処に住んでいるのかも親も教えてくれずにオレがどれだけ探したか…。もう逃がさない」
「…ぃ……ぃや、だ…っ、はな、はなし、…っ」
 震えながら、声を絞り出すイルカは、なんとか逃げ出そうとした。 ここがどこであるのかなど今は頭に無い。大声を出せばあるいは傍を通りかかった誰かが助けてくれたのかもしれないが、 イルカは弱々しいながらも拒絶を試みて、必死にもがき、暴れた。
「イルカ…ッ」
 一種の恐慌状態になったイルカは、手に持っていたカカシのプレゼントを、 カジに向かって投げつけた。柔らかいそれは、けれども顔面に当たることで、 イルカの腕を掴む力を一瞬失わせた。
 その機を逃さず、イルカは走り出した。
「あっ、待ってくれ、イルカッ」
 カジが追いかけてくる足音が聞こえる。
 イルカは無我夢中で駆けた。



(07.08.06up)