ひとつ屋根の下2

第26話「その人に障るな…!」





 高校生になったら。
 イルカは必死に、それのみを希望として中学生活を送った。
 高校生になったら、この家を出て行く。
 今はまだ無理だけれども、高校生になったなら、言い訳もいくらでもたつ。 だから出来るだけ遠くへ、遠くの学校へ進学しようと思っていた。
 カジは高校を、実家より離れた私学を選び、その為高校の寮に入った。
 イルカにとって、半年間の狂気に似た日々が終わりを告げたかのようで、そうでもなかった。
 長期休暇期間には必ず戻ってきたし、週末に帰ってくることもあった。
 イルカはなるべく家に居ないようにしようと思い、塾に通うことで幾分逃げた。 それぐらいの遺産は、当然ある。
 しかし夜はどんな日にもやってくるもので。
 イルカは隣りの部屋にカジが居る夜は、布団にくるまって身を震わせて、 呼び出す音がしないことを祈っていた。




ひとつ屋根の下2 第26話「その人に障るな…!」





 イルカが希望していた高校は、私立ではあったが特待生として入学できることになった。
 始めは家を出て遠くに行くことになるので、伯父夫婦は反対していたが、 ある事情があって許可してくれた。
 それは、―― カジによる虐待を目撃されたからだ。
 イルカだってあまりのショックに、頭の中が真っ白になるようなことを…当時のイルカにとって、 鞭で打つよりも考えられないことを、カジはその時した。
 流石にこのままではいけないと、伯父夫婦は悟った。悟らざるを得なかった。
 イルカはその高校に入学をし、一人暮らしを始めることになった。その住所や高校に関して、 伯父夫婦は息子のカジに一切教えなかった。
 伯父夫婦は援助を申し出てくれたが、イルカはそれを断った。 なるべく人の世話になりたくはなかった。幸い両親が残してくれた遺産がある。 その内から伯父夫婦に今までの生活費等を渡していても、まだ少しは残っていた。
 それだって、大事に使わねばならない。高校は特待生扱いで授業料等要らなかったとしても、 教科書代や制服等は必要であるし、月々の家賃や光熱費、食費等、色々と要るものだ。 とてもじゃないが、遺産だけでこれからの生活をまかないきれるとは思えなかった。
 だからイルカはバイト禁止の高校ではあるものの、内緒で色んなバイトをした。 その傍らで勉強に励み、木の葉大学を目指していた。
 カジからの束縛を離れたはずなのに、イルカの三年間は明るいものではなかった。 毎日を忙しく過ごし、友人を作ることも遊ぶこともないまま、余裕のない日々を送っていた。
 そのツケが出たのが、三年の春だ。
 新学期が始まって間もなく、イルカは疲れが溜まっていたのと季節の変わり目だったことから、 風邪を引いた。熱を出した為、数日間学校を休んだ。 しかしなかなか治るどころか嘔吐や下痢を繰り返すようになり、 流石に重い身体を引きずって病院へ行ったイルカは肺炎の診断を下された。
 かなり容態が悪かったので、入院生活することになった。その時、 現在の木の葉荘のオーナーと出会った。オーナーが入院患者で、 その身内として見舞いに来ていたアスマとも出会うこととなる。
 オーナーは人懐こい笑みで、イルカになにかと話しかけてきてくれた。もしかしたら、 誰も見舞いに来る様子の無いイルカを気遣ってくれたのかもしれない。ともかくそうして、 イルカは二人とそれなりに親しくなった。イルカが木の葉大学を目指しているということも、 アスマが現在木の葉大学の学生であるという共通点があってより話が合い、連絡先も交換した。

 イルカの入院は約二週間を要したが、無事退院できることになった。
 退院してからは、またバイトと勉強を頑張った。
 しかしそれも束の間だった。
 その時イルカがバイトしていた牛丼屋に、カジが現れたのだった。
 イルカはあまりの衝撃に、何とその場で倒れてしまった。過呼吸に陥ったのだ。
 この時イルカにとって幸運だったのは、イルカのバイト先に丁度オーナーが通り掛りにイルカに会いに寄っていたことだ。 倒れたイルカをカジから奪い、強引に引き取った。
 オーナーは理由を聞くことはなかったし、イルカも過去の話をしたくはなかった。
 そうしてイルカは自宅へと戻ったが、そこから出て行くことが恐怖になった。
 外にカジが居るのかもしれないと思うと、怖くて出て行けなくなり、学校に行けなくなった。 学校ばかりではない、外に出れないのだから買い物やバイトにも行けず、 そうした生活が長く続くはずもない。
 今度もまた、オーナーに助けられた。
 あれからイルカを心配したオーナーが、アスマに様子を見に行くように言い、 アスマも心配だったのでイルカの住むアパートに訪ねてきたのだ。
 幸い米を買ったばかりだったから、空腹で死ぬことはなかったものの、 精神的にも肉体的にも危険な状態には違いなく、このままでは放っておけないとオーナーが自宅に預かることにした。
 誰かの世話になること、迷惑を掛けることを厭ったイルカではあったが、 自分でもあのままだと死ぬかもしれないという自覚があった。
 そうしてオーナーの大きな屋敷で日々を過ごしたある日。
 イルカの通う学校の担任が、イルカを尋ねてやってきた。
 食事をとり、健康そのものの状態になったものの、外に出ることが出来なくなっていたイルカは、 学校には不登校のままだった。
 教師は―― 事務的な口調で、このままでは、特待生の優遇措置が無くなることを告げた。
 イルカはただ、「すみません」と何度も謝るだけで。
 それ以外に会話は無かった。
 このままではいけないと、自分でも十分分かっていた。それでもどうしようもなく、外が恐ろしい。 カジが恐ろしい。
 勉強は独学で続けていたものの、やがて担任が二度目の訪問で、留年の旨を伝えに来た。
 イルカはすみませんでした、と詫びる以外になかった。
 どうしようもない。己が全部悪いのだ。
 イルカは、自分の弱さを責めることしか出来なかった。




 それでも、やっと。
 木の葉荘の管理人として暮らす中で、自分が見失っていた本当に大切なもの… 人との触れ合いが徐々に自身を変えていくのが分かった。自分は一人ではないと、そう思えた。
 そんな大切な人達を得て。
 大切な場所を得て。
 やっと、カジからの呪縛を離れ、自分らしく生きていけると、そう思っていたのだ。

 なのにどうして。

 イルカはこうなることを恐れていた。
 カジにまた見つけられることを、密かに恐れていた。二の舞を踏むことを恐れていたのだ。
 もう、あの家に住んでいるわけではない。カジに束縛される理由はもうどこにも無いはずだ。
 …それでも。会えばきっと、恐怖を跳ね除けることが出来ないだろうと―― カジに逆らいきれないだろうと分かってもいた。


 必死に逃げる足が、時折りもつれそうになる。
 日が落ちるのは早く、辺りは暗くなりつつあり、月が薄っすらと姿を現している。

 何処まで逃げればいいのだろうか。
 何処に逃げ場なんてあるのだろうか。
 もう、無い。

(失くしてしまった)

 やっと出来たと思っていた、居場所を。
 木の葉荘には帰れず、何処に逃げても追いかけてくる。
 もう。
 もう、疲れた。


「…イルカッ!」
 イルカの後を追うカジの大声に、イルカは身を竦ませた。
 彼から逃れようとして、何度鞭を身に受けたことだろう。 今もまざまざとその裂けるような痛みを思い出す。
「……ッ」
〔ぶり返し〕が起こって、イルカはその場に蹲った。
 痛い。怖い。

(…カカシさん…!)

 何度も何度も、声に出せない助けを呼ぶ。
 助けに来るはずがないことを分かっていながら。

「やっと追いついた……、イルカ」
 住宅地を離れた国道は、車が行き交うばかりで人影が無い。 その歩道でイルカはとうとう追いつかれた。
 荒い息を吐く男が、間近に迫っているのが振り返らずとも分かる。
 それでももう、逃げることが出来なかった。
 逃れられぬ恐怖。
 ガタガタと勝手に身体が震えるのを止められない。
 カジの荒い息。黒い影が自分の身を覆うことで、ふと、 イルカの脳裏にとある過去がフラッシュバックした。


 あれは中学三年生の時。
 寮から家に戻っていたカジに、夜中にまた呼び出されて。
 カジはとても不機嫌そうだった。
 また鞭を打たれる―― そう思っていたのに。
 カジは突然、イルカの着衣を引き裂いた。
 布を引き裂く音に、イルカはかつてない恐怖に蹲って震えた。 カジから身を覆い隠すように小さく震えていたが、そのイルカにカジの影が差し、 荒い息遣いが聞こえてきた。
「…ぃ……やだ…っ」
 ぐいっと強く腕を引かれ、ベッドに転がされて。
 ただただ怖くて、イルカは震えながら泣いていた。
 カジが覆いかぶさってきて、自分の身に触れようとした時、イルカの中で何かが弾けとび、 頭の中が真っ白になった。


「…ぁ…」
 過去の恐ろしい記憶と今のカジが重なる。
 あの時は、悲鳴を上げていた。カジからの虐待に、初めて大声を上げたのだ。
 そうして駆けつけてきた伯父夫婦によって事なきを得、家を出ることを許された。
 だけど今は。
 思い出した恐怖も相まって、声を上げることもできない。
 結局逃げることなんてできやしないのだ。

 カジは蹲るイルカに向かって、腕を伸ばした。
「イル……」


「――― 離れろ…! その人に障るな…!」


 しかしその時、カジの行動を遮る声が響いた。
 その声の主に睨み付けられたカジは、思わず動きを止めた。そして怯えたように、一歩後ずさる。
「……!」
 イルカはこの声を知っていた。
 だってずっと呼んでいたのだ。
 けれどもまさか、本当に来てくれるだなんて思っていなかった。
 それでも呼んでいた。


「…か…カカシ、さん…」


 息を切らせたカカシが、そこに居た。



(07.08.16up)