ひとつ屋根の下2

第28話「ここにはもう無いよ」





 これからどうしよう。


 イルカは工事現場の土管の中に入り、膝を抱えて小さくなっていた。 頭を上げれば上部分にぶつけてしまうぐらいの大きさの土管だ。 ひゅうひゅうと冷たい風が入りたい放題だから、寒いことこの上ない。 入った直後は走っていた為熱かった身体も、今は汗が引いて逆に寒さを一層感じてしまう。 それでもここから出て行く気にはなれずにいた。
 色んなものが一気に押し寄せてきたように頭の中がいっぱいになって、何もかもが嫌になり、 カカシを突き放してこんな所に逃げ込んだのだが。
 少し冷静になると、カカシの話をちゃんと聞けば良かったのかもしれないと思えてきた。 まだカカシが何を知ったのかも分からないままだったのに。勝手にそうだと思って、 怖くなって何も聞きたくなかった。
 思えば、カカシは助けに来てくれた。それは、自分のことを少なくとも嫌ってなどいないということではないだろうか。
 確か昨日もそれで失敗した。どうして同じ過ちを繰り返すのだろう。
 馬鹿だ。
「…う…っ」
 泣きそうになるが、なんとか踏ん張って零さずにいる。
 どうしよう、晩御飯も作ってない。
 管理人も失格だ。
 考えれば考えるほど、マイナスばかりが埋め尽くしていく。

 途方に暮れていた頃に、じゃり、じゃり、と地面の砂を踏み歩く重く小さい音が背後の方からした。
「…え…」
 ビクリと身体を揺らし、瞬時に不安が胸いっぱいに広がる。
 逃げなければ。
 イルカはそうっと前屈みに四つん這いになり、土管の中から抜け出そうとした。
 そのイルカの前方に、人影がにゅっと現れる。
「…うわっ」
 夜目に慣れたものの、月明かりをバックにしたその人物の顔は真っ黒になっていて分からない。 イルカはつい声を上げ、その拍子に頭を上げて土管の上部分にぶつけた。ゴン、 と低く鈍い音がする。
「いっ…」
 痛みに呻くと、その人影がなんと中に入ってきた。
「……っ」
 イルカは恐怖に慄き、逃げ出す為に後退りしようとすると、その影は声を発した。

「…待って。もう逃げないで」

 土管の中で声がくぐもりながらも、その聞きなれた声を間違えるはずもなく。
「…か…カカ…」
 イルカの動きが止まる。
 その影は―― カカシは、にゅっと身を伸ばし、イルカの身体を抱き締めて横たわった。




ひとつ屋根の下2 第28話「ここにはもう無いよ」





 大の男二人分寝そべれば、それだけで土管の中はぎゅうぎゅうで身動きが取りにくい。 そうでなくても、もうイルカにはカカシから逃れる気は無くなっていて、大人しくしていた。
 密着するカカシの身体からは、熱気を感じる。こんな寒い夜なのに。 きっと必死に探していてくれたのだ。
「……」
 土管の中は、暗くて夜目に慣れていてもその表情が見難くて、 それでもカカシの眼差しが切なく映ってイルカの胸は痛んだ。
「…今日は…管理人さんを探しっぱなしな気分」
 カカシはクスリと笑った。
「カカシさん…」
 どうしよう。なんて言おう。
 先ずは何と言うべきなのだろうか。イルカは分からなくて口籠っていた。
 ごめんなさいとか。ありがとうとか。
 逃げておきながら、探してくれて嬉しいとか。
 伝えたい言葉はたくさんあるというのに。
「オレの話、聞いてくれる?」
「……」
 イルカはコクリと頷いた。
「カジと会ったのは…ミズキが部室に連れてきたんだ。管理人さんの従兄弟で、 管理人さんの居場所が知りたいって言ってね」
「え…」
「胡散臭かったから何も教えなかったけど。…あいつと話したのはそれぐらい」
「…そう…なんですか」
 やはり、ちゃんと話を聞くべきだったのに。
 居た堪れないぐらい恥ずかしい。
「それと、今日管理人さんを探してたのは、…コテツがオレに教えに来てくれたんだ。 あいつが管理人さんらの前に姿を現して、管理人さんが逃げたこと。 そしてあいつが管理人さんを探していることと…今日も学校前に現れたってこと。だからオレ、 妙な胸騒ぎがしてアンタを探してたんだ」
「コテツが…」
 そうか、と納得した。だからカカシは、カジから逃げて怯えている自分を知ったのか、と。
 …だったら。カカシほど頭のいい人ならば、もう大体の見当はついているだろう。 …背中の傷のことも知っていることだし。
 素直に信じた様子のイルカに、カカシはホッと胸を撫で下ろした。
「そしたらさ。木の葉荘に戻ったらアンタ居なくて。丁度帰ってきたゲンマ達に、 従兄弟だと名乗る男が近所に居たっていうから、場所を聞いて駆けつけたのが、さっきのこと」
 カカシはイルカの頬を、するりと撫でた。冷たい手だけど、優しい。
「…ごめんなさい…カカシさん…、オレ…」
 オレは。その続きが上手く出てこない。
 カカシには酷いことをたくさんした。プレゼントを拒否したり、 マキの言うことに半信半疑だったり、さっきだってこんなに心配してくれていたカカシから逃げ出した。 これほど優しくしてもらう資格など無いはずなのに、嬉しいと感じてしまう。 カカシが自分のことを思ってくれていたことが、幸せで胸が詰まりそうになる。
「…何が? 何を謝るの?」
「…オレ…、迷惑…かけて」
「迷惑なんかじゃないよ」
「カカシさんに酷いことしました」
「酷いことって?」
「…プレゼント…を」
 その先は喉が詰まって、言葉に出せなかった。涙が溢れそうになるのを堪えることで精一杯だ。 泣く資格なんて無いのに。
「ああ…それね。そりゃまぁ、ショックだったけど」
「…ッ、…ご…ごめ、なさ…っ」
 ダメだ、堪えられない。
 するとカカシはイルカをぎゅっと抱き締める腕に力を込め、イルカの顔を自分の肩口に押し付けた。
「ああもう…、オレ、こういうの得意じゃないのよ。何て言ったらいいか分かんないんだけど… アンタにそういう顔される方が辛いからやめて。もういいよ」
 そんなことを言われたって、余計に涙が零れそうになる。
 だけどイルカの高ぶった感情を宥めるように頭を撫でるカカシの手に、 イルカは落ち着きだしてきた。

「オレはね、管理人さん。あいつが姿を現してから、不安だったんだ。 二人の間に何があったのかなんて知らないけど、 どうしてだかアンタがどっか行ってしまうような気がして…、あいつとは絶対会わせたくなかった。 胡散臭いとかより、だからアンタのこと教えなかったし、アンタに言わなかった」
「……」
 まさか、カカシがそんな風に思っていたなんて。自分が居なくなることを、恐れていただなんて。
「アンタのことなら何だって知りたいよ。でもオレには、アンタが例え火星人だって構わない」
「…火星人…」
 多分。すごい殺し文句を告げられているのだろうけど、その例えにイルカはつい、吹き出した。
 笑われて心外だと言わんばかりのカカシの顔に、申し訳なさと、けどやっぱりおかしくって笑った。
 そうしないと、泣いてしまいそうだった。
 笑いが収まってカカシを見ると、カカシの優しい眼差しが自分を見つめていて、 イルカはカーッと頬だけではなく、全身の体温が上昇するのが分かった。
「やっぱり管理人さんは笑っている顔が一番好き」
「!」
 好きって。
 そんな目で、そんな顔をして言わないで欲しい。立っていたらきっと倒れていた。 それぐらい破壊力がある。
 今が暗闇の中で良かった。きっとこの綺麗な顔をした男と釣り合わない酷い顔をしているはずだ。
「ねぇ管理人さん。アンタがどこに逃げたって、オレは追いかけるよ。こうして探して、 何度だって連れ戻すから。それがオレを捕まえたアンタの責任」
「…つ、…捕まえたって…?」
 ドクドクと鼓動が高鳴っているのを感じている。
 密着する身体に。髪を撫でるカカシの指先に。自分を見つめるカカシの眼差しに、 自分への執着を表す言葉に、さっきから胸が苦しくってどうにかなりそうだ。
「捕まえたじゃない。オレがアンタから逃げた時」
 そんな風に言われても、何のことか思い当たらなかった。
「雨の夜に、アンタ抱きついてきて」
「…あ」
 あの時のことかと、イルカは真っ赤になった。あの時はカカシを失いたくなくて、 無我夢中だった。
 カカシも、同じような気持ちで探してくれたのだろうか。
「…あの時に…あの時から、アンタに捕まったまんまで、もう離れられないよ」
「……っ」
 何か言おうとすると泣き声になりそうで、つっかえた喉が熱い。
 イルカの胸はじんと痺れて、鼻の付け根がつんと痛くなり、 ついに目から大粒の涙がするっと流れ落ちていく。みっともないと思いつつも、止められない。
 すると、カカシが纏う空気が変わったのが分かった。
 何―― と思うイルカの首の後ろを、髪を撫でていた手が押さえて、ぐ、 とカカシの方へ引き寄せられて。

 唇が、重なり合う。

 久しぶりの、カカシの唇の感触。
 慣れたはずのものが、こんなにも頭の中を溶かしそうになるものだったろうか。
「…ふ…ぅ」
 唇が少し離れて、空気を吸う。
 カカシはイルカを抱き締めていた手で、今度は顎を押さえた。
 そんなことをしなくても、逃げないのに。
 頭の片隅に冷静な部分がほんの僅かにあって、そう思う。
 また、カカシの唇が近付いて。
 イルカは瞼を降ろした。

 角度を変えて重なり合う口付けに、イルカは意識が朦朧としていく。その中で、 イルカは閉じた歯を舐められる感触がした。
 なんだろう、とぼうっとしていると、カカシが「口開いて」と熱っぽく囁いた。
 よく分からないままにもそうすると、熱い舌が咥内に侵入してきて、イルカの舌を絡め取る。
「…ん、」
 好き勝手に咥内を蹂躙する舌が、気持ちいい。
 ぞくぞくと痺れてくる。
 カカシとのキスに夢中になっていると、カカシの手が背中を撫で始めた。
「…ぁ…っ」
 ぞくん、として震える。
「…管理人さん」
 熱に浮かされたような、夢見るような心地だったのが、段々現実に引き戻されていく。
 カカシはイルカの服の裾から手を侵入させ、直にイルカの背の傷を撫でた。
 カカシの手だと分かっているのに、本能的に怯えてしまう。
「…っ、や、だぁ」
 カカシから顔を背けて思わず拒絶の意を告げれば、カカシはイルカの耳朶を食んだ。
「あっ」
 カカシの熱い吐息を耳に吹き込まれ、ぞくっとしてイルカは首を竦めた。
「…前に…オレなら触れても大丈夫って、言ったよね…?」
「…で、も」
 大丈夫だと思っていたけれども。
「ん…っ」
 カカシはイルカの唇を強引に塞ぐと、背中を何度も撫でた。もう一方の手は、脇腹をなぞり、 前へと回って小さな膨らみをつまむ。
「ん…、ん、ぅ」
 悪戯な指の動きに、イルカの身体がビクビクと震える。最初はそんなに感じなかったのに、 ぞくぞくとしたものが背中を走り、腰の部分に熱を溜めていく。
 イルカは足をもぞもぞと動かし始めた。

「ねぇ。この背中の傷は…あいつがつけたの?」

 しかし、そこでカカシは冷やりと一瞬で熱を奪うようなことを告げた。
 するりと背中を撫でる指。
 ここまでくれば、カカシは当然分かっているのだろうとは思っていた。
 自分がカジに怯え、そして―― その為に親戚の家を出たということも。
 けれどもやはり、こうして口に出されると酷く胸が痛んだ。
 イルカは、流石にカカシがもう自分を醜く思わないとは分かっていても、 それでも後ろ暗さが消えなかった。
「や…」
 カカシを押し返そうとするイルカを、しかしカカシは力強く抱き締める。

「―― ねぇ。オレがその上に傷を付けたら、アンタは全部オレのものになるの?」

「…え…?」
 イルカには、カカシの真意が量りかねた。
「…ッ」
 そしてその直後、背中にちくっと痛みが走った。カカシが爪を立てたのだ。
「か、カカシさん…?」
「…傷、付けるよ」
 そう言うと、カカシはイルカの背中を爪でひっかいた。
「痛っ」
 血が出るほど酷くはないが、引っかき傷のようなものは少し出来たのかもしれない。
 カカシはイルカの頬にキスをした。
「背中、見せて」
「え…? そんな、無理ですよ」
「無理じゃないよ」
 カカシは強引にも、この狭い空間の中でイルカの身体を引っくり返させた。
「カカ…ぁ…っ」
 文句を言おうとするが、背中を舐められて喘ぎ声に変わる。


「…うん。オレの付けた傷しか、ここにはもう無いよ」


「……!」
 イルカはハッとして、そしてカカシの意図を悟った。

 どうしよう。
 震えるぐらい…嬉しい。

「カカシさん…、あ、ぁ」
 カカシの熱い舌が、何度もイルカの背中を舐める。
 カカシの手が、イルカの身体を愛撫する。


 イルカはカカシに全身が溶かされていくような感覚を味わった。



(07.09.12up)