ひとつ屋根の下2

第30話「誰にも渡したくなかった」





「…ふう」
 カカシは広い湯船につかり、息を吐いた。
 今日ほど風呂が気持ち良いと思うこともないかもしれない。それぐらい疲れていた。
「…イルカのあの従兄弟って…結局さ、どーなんだ?」
 同じく湯船に浸かるライドウが、唐突に口に出した。
 ゲンマは洗い場で頭を洗っている。振り返らずに、そのまま手を動かす。
 今はこの三人だけだ。
 カカシはイルカと入りたかったが、イルカは嫌だと言った。 前は平気だったくせに…と恨みに思うが風呂を出たらイルカの部屋へ行くつもりだ。 何せ自分の熱が、消化不良のまま燻ぶっているのだから。
「青葉さんはああ言ったし、イルカが辛そうだったから聞かずに置いたけどさ。 オレはやっぱり気になるな。ゲンマやカカシさんはそんなこと無い?」
「お前は察しが悪いな。聞かなくても大体の事情は分かるだろーが」
「んだよっ、お前は分かってるってのかよゲンマ」
 ゲンマは泡を洗い流し、次にリンスを手に取る。
「少しはね」
「な、なんだよ教えろよ」
 ライドウは浴槽に手を掛け、身を乗り出した。だけどゲンマは背中を向けたまま、 淡々と身体を洗い進めている。
「なぁゲンマ」
「…管理人さんは、あの変態の従兄弟から逃げてるってワケ。りょーかい?」
 そこでカカシが代わりに答えた。
 ゲンマは振り返った。
「カカシさん…」
「いーじゃないのよ、これぐらい。分からないままだと、ライドウはずっと悶々しそうだしさ」
「そうか…そうだったのか…。オレ、ぶっ飛ばしてやる!」
 ぐっと握り締めた拳を見つめて、ライドウが言った。
「やめとけ。お前が口出すと話がややこしくなりそうだ」
「んだとっゲンマ! お前はいっつもそうだ。どっか冷てぇんだよ。 イルカが嫌な目に遭ったってのに腹立たねぇのかよ」
「……」
 ゲンマはまた髪を洗い流し、全身にもシャワーをかけて、やっと立ち上がった。
「…な、なんだよ」
 押し黙ったまま湯船にやってくるゲンマを見上げて、ライドウが少しばかり身じろぐ。 けれどもゲンマはそんなライドウを無視するかのように、湯船に身を沈めた。
「…ふう。気持ちいい」
「ゲンマ」
 バツの悪そうな顔をしたライドウが、ゲンマに身を寄せる。
「…バーカ。んな顔すんなよ」
 ゲンマは湯を指で弾き、ライドウの顔に跳ねた湯がかかる。 「おわっ」と言いながら目を瞑るライドウに、ゲンマは小さく笑った。
「お前は考え無しに突っ走るから、放っておけって言ってんの。イルカのことは、 カカシさんに任せておけばいいさ」
「ん? オレ? ま、そーいうこと」
 急に話を振られたカカシだが、あっさりと頷いてみせた。
「……」
 ライドウは何かを言おうとして、しかしやがて「そうですね」と納得したようだった。
 ゲンマが背中の傷のことまで、つまりはあの従兄弟に虐待を受けていたということまでは知らないのか知っているのかは分からない。 だがそこまで詮索するような男ではないだろうし、頭のいい男だから、イルカがあの従兄弟に怯え、 逃げていることぐらいは察して、そして以前オーナーが話したイルカの過去とある程度照らせて考えれてもいるはずだ。 多分、従兄弟から何かしら逃げねばならない事情があったと。でなきゃ、 高校生で一人暮らしなんてよっぽどのことだ。親戚の家で嫌なことがあったと考えるのが妥当だ。
 気にならないわけではないだろうが、ゲンマは青葉と同じように今のイルカが大事なのだろう。
 それにしても。
 イルカはカジと話をすると言った。
 カカシは本心では反対だ。あんな男など、 半殺しにでもして二度と顔を出そうなんていう気を起こさないようにすればいい。こういう所は、 ライドウと似ている。
(ま、指一本触れさせないけどね)
 イルカには、二度と。
 カカシはそのイルカの所へ行くべく、湯船を上がった。

 残ったライドウは、湯を手ですくって顔を洗っては、ふうーと気持ち良さそうに息を吐く。 ゲンマは浴槽にもたれて両腕を引っ掛け、胸元辺りまで湯船から出している。
「…そういやさ、お前…新年はどーすんの?」
 ゲンマはライドウを見ないまま、問うた。
「あ? そーいやもう言ってる間に年末か…早ぇな。年末からばあちゃん家に帰るつもりだけど」
「…そ」
「おう。大掃除手伝わなきゃな。あの家広いし、ばあちゃん腰悪いし」
 ライドウは、木の葉荘にくるまで祖父母と妹と四人暮らしだった。 木の葉大学から結構離れた場所に家がある為、ゲンマが誘って木の葉荘に下宿することにしたのだ。
「じゃあさ。クリスマスは?」
「クリスマス?」
「まーた妹とデートか?」
 からかうようなゲンマの問いに、ライドウは顔を赤くして怒った。
「んだと? オレだってなぁ、別にクリスマスを一緒に過ごす相手が居ないから妹と過ごしてたんじゃないんだからな!」
「ハイハイ」
 軽くあしらうようなゲンマに、ライドウの機嫌は傾く一方だ。
「生憎オレは、今年はバイト入ってんだよっ」
「バイトって、スタジオ近くの?」
「そうだよ。悪いか」
「べっつに」
 むっつりとしたライドウに反して、ゲンマはこっそりと嬉しそうに笑った。




 カカシはイルカの部屋の前に立ち、コンコンと数度ノックをした。けれどもイルカの反応が無い。
「…管理人さん?」
 声を掛けながら、カカシは戸を開いた。
 すると、そこには電気を点けっ放しにしたまま畳の上に寝転ぶイルカが居た。
「……」
 カカシは暫く入り口近くで立ったまま、すやすやと眠るイルカを見下ろした。
 机の上には参考書が置かれていて、多分風呂に上がった後勉強をしようとしていたのだろうと窺えた。
「…まったく、もう」
 とんだ肩透かしにぼやきながらも、カカシはイルカの布団を敷くと、そこにイルカの身体を抱き上げて横たえさせた。 布団を上からかぶせて、ポンポンと軽く叩く。
(…まぁ、今日は色々とあったしね)
 そのまま自分もイルカの横で眠ろうかとも思ったが、欲望が燻ぶっているのは事実で、 どうにも添い寝だけで済むとは思えない。
 愛を試されているような気分になってくる。全く、無防備な寝顔がかわいすぎて憎らしい。
「こんな顔見て何もしないのは、オレぐらいなもんなんだからね」
 だから、他のヤツになんか絶対見せたくない。
 離れがたいものを感じつつも、カカシはそっと起き上がると部屋の電気を消して出て行った。

 こうして長い一日は終わった。




ひとつ屋根の下2 第30話「誰にも渡したくなかった」





 それは日曜日の昼。
 木の葉荘の客室では、緊張が広がっていた。
「……」
 イルカとカカシが並んで座り、テーブルを挟んだ向こうには―― カジが居る。
 六畳の部屋には沈黙が占めていた。

 カジには、ミズキを通して連絡を取った。互いの予定が合った日が、今日になる。
 話をしようと決めたのはイルカだが、さっきからカジから視線を逸らして何も言い出せないでいた。
 カカシとしては、さっさと話とやらを終わらせてカジには永遠に目の前から消えて欲しいところだ。
 一方、カジは。

「…こうして…話を聞く気になってくれて、嬉しいよイルカ」
 そう口を開くと、カジはニコリと笑った。
「……」
 こうしてじっくりと、カジを見るのは久しぶりだ。一年前も、数日前もただ怖くて逃げてばかりで、 まともに見たことはなかった。随分大人になったように思う。以前から柔らかい物腰ではあったが、 落ち着きも加わって余計にそう見える。
「随分…大人になったね」
「…カジ兄さんも…」
「そりゃね。オレも今は社会人で働いているんだよ」
「大学には…」
 意外に思った。カジは優秀だったはずだ。てっきり大学に進んでいると思っていた。
 カジは笑った。
「いかなかったよ。…イルカ。オレはお前が居なくなって…いや居なくなる前からおかしかったんだ」
「……」
「オレはね…イルカ、お前への接し方を間違えたよ。今ではどうしてあんなことができたのか、 自分でも分からない。…っと…彼の前で話を続けてもいいの?」
 カジはカカシがこの場に居ることを気遣った。カカシもそれには同じ気持ちではあった。 二人きりになどする気は更々無いが、さりとてイルカは知られることをあれほど恐れていたのだ。
 しかしイルカは頷いた。
「ええ。もう大丈夫です」
 言いながら、カカシの服の袖をぎゅっと握る。
 こんな時にそんな可愛いことしないで欲しかった。流石に抱き締めることも出来ない。 カジの前だからというわけではなく、イルカは必死だから。カジと向き合うことに。
 そんなイルカの邪魔はしたくないと思った。
「そう…。…オレはね、イルカ。…お前のことが…好きだったんだ」
「…カジ兄さん…?」
 イルカにとっては、意外な告白だった。てっきりカジに憎まれていると思っていた。 だからあんな酷い真似をしたのだと。
「お前が可愛くて…それは弟のようなものだと思っていた。だけどお前が中学生になった姿を見た時に、 それは親愛の情ではなく、イルカに恋をしていると気付いたんだ」
 そう告白すると、カジは少し照れたように頬を掻いた。イルカは戸惑って何も言えずにいる。
「…気持ち悪いことを言ってごめん。でも、それだけは知って欲しかった」
「…そんな」
 イルカはうまく言葉が見つからなくて、首を振った。
「お前が好きで、誰にも渡したくなかった。オレは普通に人を愛することが出来ない欠陥人間だったんだ。 だからあんな酷いことをして、イルカを束縛しようとした。 それでイルカは確かに誰とも一緒に居ることはしなくなったけど…オレを恐れてばかりで見ようともしなくなった。 けれどもオレは後戻りも出来ず、どんどん深みにはまる一方で…焦るばかりでエスカレートして。 距離を置こうと寮のある高校にしたけど無駄だった。離れていると余計にお前のことばかり考えて… 最後には…あんなことまでしようとして…」
 あんなこと、の指す意味を理解したイルカは、ビクリと身体を竦ませた。
「お前が出て行って、オレは狂ったようにお前の居場所を探した。けれども見つけられなくて。 そうして漸く目が覚めるような思いをした。だから見つけ出して、…謝りたかったんだ。
 今まで悪かった、イルカ。愚かなオレを許してくれなんてとても言えやしないけど…」
 カジは真っ直ぐイルカを見つめて謝罪したが、最後の部分は辛そうに目を伏せて俯き、 ぐっと膝の上に置いた両手を握り締めた。
「…カジ兄さん…」
 そんな姿を目にして、イルカは胸を痛めた。
 いっそ哀れにも見える男は、ずっと恐れていた男であり、また好きな従兄弟の兄だった。
 こんな時に、昔の優しかったカジが頭を過ぎる。
 両親を亡くして辛かった時、いつも傍に居て励ましてくれていたのは、このカジだった。
 イルカはすぐ横にいるカカシを見た。
 毎日が地獄のような日々ではあったが、今は違う。
 許すのかと言われれば、よく分からない。しかしこのカジに今更何を求めることもない。
 だから。
「…もういいんです。オレは…そっとしておいてくれれば、それで」
「…イルカ…」
 それは、遠回しにもう会いたくはないということで。そしてその意はカジに伝わった。
「…そう、か…。…もう、帰る気は…無いか」
「はい。オレが帰る場所はもうあの家ではありません。オレの帰る場所は…ここですから」
「…管理人さん」
 見つめあうカカシが、ふわりと嬉しそうに笑った。イルカは照れ臭くて、でも笑みが零れた。
 カジは少なからずショックを受けたようだが、さりとてこれ以上イルカは彼に対してどうする気もない。 ただ、自分のことは忘れて欲しいと思うぐらいだ。
 少し間を置いて、カジは「分かった」と項垂れた。



(07.10.20up)