ひとつ屋根の下2

第32話「覚えているかしら」





 カカシは走ってマキの住むマンションに駆けつけた。
 ここに来るのはもうどれぐらいぶりだろう。それぐらい来てはいない。
 インターホンを鳴らすと、すぐにマキが出てきた。
「カカシくん…ごめんね」
「チャッピーは?」
 カカシは部屋の中に入っていった。
 ケージの中、チャッピーがぐったりとしたように横たわっている。
「チャッピー、急に下痢を繰り返しちゃって、こんなにぐったりしちゃって…。 病院今日は閉まってるし、私どうしていいのか…」
 マキは涙ぐみながら説明をした。
 しかし聞いたところで、カカシに専門的な知識があるわけではないし、 子供の頃に飼っていたのも世話は家政婦任せだったから、分からない。
 カカシが飼っていたあの仔犬は、ある日急に死んだ。
 ピクリとも動かない冷たい塊を抱いて、母はもう帰ってこないのだとやっと分かった。

 カカシはケージの中からチャッピーを取り出すと、毛布にくるんだ。
「…ど、どうするの…?」
「病院に連れていく。どっか開いてるとこあるかもしれないし…無かったら、開けさせる」
 そう言うと、カカシはチャッピーを抱えて外へ向かった。
 死なせたくはない。
「あ、私も行くっ」
 それに、マキが後を追った。




 カカシが動物病院をそんなに知っているはずもなく。
 町内に唯一ある病院が休みで、しかも家でやっているわけではないのでどれだけ叩いても無駄だった。
 諦めて、隣町へ。犬を連れての電車への乗車は断られたので、徒歩だ。 突然のことでカカシにはお金が無かった。流石に女に出せというわけにもいかず、 マキも何も言わない為タクシーを呼ぶことは出来ずにいた。
 道行く人に尋ねながら病院を探し、遂に見つけた時には既に外は暗かった。


「…良かった、何もなくて…」
「良くないよ。ちゃんと気をつけてくれないと」
 ホッと一息をつくマキに対して、カカシはつっけんどんに言った。
「ごめんなさい…」
 途端にマキはしゅんと項垂れる。それでもカカシはフォローをすることはなかった。
 休日でも空いている病院は患者も多く、しかも受付終了時間だった為に無理やりねじ込んで診てもらったから終わるのが遅かった。 それでもどうにか診てもらえば、ただの冷えからくる下痢で、ものの数分で終わってしまった。
 パグ犬の仔犬は特に寒さに弱いらしい。
 カカシは不機嫌そうな顔をしながらも、チャッピーが何かの病気でなくて良かったと安堵した。
「…お腹空かない? ご飯…食べていかない?」
 途中、マキがそう誘った。
 確かにもう夜の十時前だ。まだここから、マキの家も木の葉荘も遠い。お腹も当然空いている。
 それでもカカシは、イルカが用意してくれているだろうご飯が食べたいと思った。
 そこでふと、イルカのことを思い出した。チャッピーのことで頭がいっぱいで、 イルカに何処に行くか等告げてきていなかったことに気付いた。
 時間はまだ十時前。門限は十二時だ。
 それに、子供ではないしいちいち行き先を伝える必要は無いだろう。
 だがカカシは、イルカに電話をしようと思った。こんなチャンスが無いと、 折角携帯番号を知っているのに電話を掛けることが無い。 家庭教師のお迎えで一度掛けれて嬉しかったけど、最後の日だったのであのたった一回だけだった。 もっと早くに気付くべきだったと悔しい思いを内心していた。
 しかし。
「…あれ?」
 携帯が、ポケットに無かった。焦って両方探っても無い。
 そういえば、携帯を握り締めてマキの部屋まで行き、チャッピーを毛布にくるむ時に… 携帯をその辺に置いたのだ。
 カカシは自分の失態に、頭を抱えたくなった。
「…カカシくん? お金無いなら私が出すし。今日のお礼に」
 マキは財布を探っていると勘違いしたようだ。
「…いや、いい」
 女に奢られるのは嫌だし、何よりイルカのご飯が食べたい。
 クリスマスイブの件では、イルカの警戒心の無さに腹が立った。 既に他の誰かと予定を入れていたことも腹立たしかったし、 何よりそれがあのカブトと一緒だというのだから言語道断だ。 今まで一体どれだけ注意してきたことか。なのにさっぱり分かってない。少し、 カジの気持ちが理解できる。
(縛り付けておかないと、不安になるよ)
 それにしたって、オレの勝手ときた時にはどうしてくれようというぐらい腹が立ったが。
 不思議なもので、今はとてもイルカに会いたい。

 けれどもそこで、マキのお腹が鳴った。
「きゃっ、やだもう」
 マキは真っ赤になって、お腹をおさえた。
「……オレは食べないけど…、入る?」
 少し先にある、ファミレスをカカシは指差した。




ひとつ屋根の下2 第32話「覚えているかしら」





 カカシが帰ってこない。
 イルカは内心苛々としながら、帰りを待っていた。
 もう晩御飯は冷め切ってしまっている。
「…折角、サンマにしたのに…。…カカシさんの馬鹿。電話ぐらいしろ」
 台所のテーブルの上に自分の携帯を乗せ、椅子に座ってそれをじっと睨み付けている。
 管理人が下宿人に対して、何をしているのか等を電話するのはおかしいだろう… と思うとこちらから掛けることができずにいた。
「……」
 あの女の人の家に、まだ居るのだろうか。
 そう考えただけで、胸が掴まれたかのようにきゅっと痛くて苦しくなる。
 きっと何も無いのだと。そう信じたい。
 出て行く前のカカシは何か、様子がおかしかった。顔色を変えて部屋を出て行ったのを覚えている。 何か急な用事とか…突発的な出来事があったのだろうと、そう思っている。
 カカシは何を考えているのか分からない所があるし、常識やモラルに欠けた所もあるが… だからといって、不誠実なんかじゃない。
 好きと、何度も告げてくれた想いと。あんなに必死になって探してくれたカカシを、 守ろうとしてくれたカカシを信じたいのだ。
 テーブルの上には、イルカの携帯以外にカカシの分の食事と、 イルカの分の食事も手付かずで置かれている。一緒に温めて食べようと思って、 ずっと待っているのだ。
 帰ってきたら。
 絶対告白をして、もう二度と何処かに行ってしまわないように『恋人』の檻に入れてやる。
 だから…。
「…早く…帰ってきてください」
 祈るような気持ちで、イルカはそう口にした。

 そうして延々と待ち続けていると。
「…ん?」
 外で、雨音がしだした。パラパラ…と、小雨が振っているようだ。 今は冬なので窓を開けていることはないが、気晴らしを兼ねて念の為に見回りをしようと、 イルカは席を立った。




 カカシがマキのマンションに到着したのは、十一時を回っていた。
 女の食事は遅くて苛々する。
 更には、帰宅途中で雨が降り出したから、余計に機嫌が悪くなるというものだ。
「カカシくん、はい」
 マキは部屋に上がると、バスタオルを急いで持ってきてカカシに手渡した。 最初はパラパラと降っていただけの雨は、途中で土砂降りになった。
「オレよりチャッピーを」
 毛布だけでは何だったので、カカシは自分の上着をもチャッピーにかぶせていた。 つまりカカシは今薄着で、とても寒い。
「っくしゅん」
 つい、くしゃみが出た。
「カカシくん、大丈夫? 寒いよね」
 マキはオロオロとしながらも、ともかくチャッピーを温める為にもヒーターを入れた。
 本当に災難だと思いながら、カカシは雨に濡れた身体を拭った。
「…カカシくん、お風呂入って。そのままじゃ風邪引いちゃうよ。今お風呂入れたの。 すぐ溜まるから…」
「いやいい。帰ってから入る。携帯取ってきてくれない?」
 濡れた足で上がるのは気がひけて、カカシはマキにそう頼んだ。だが、マキは従おうとはせず、 眉を寄せた。
「ダメ! 私のせいでこうなったんだから、せめてお風呂に入って温もってからにして。 家に帰るのはそれからでいいでしょう? 傘と着替えも貸すし、ね、お願い」
「…いいよ。オレよりアンタ入りなよ。アンタもえらく濡れたんだし」
「じゃあ、私はカカシくんが入ってくれるまで入らないから。そう決めた」
「…マキ…あのね」
 マキは怒った顔のまま、どうやら曲げる気はないらしい。
 放って帰ろうと思いはするものの、あまりの寒気に身震いがして、気が変わった。 このままでは本当に風邪を引きそうだ。そうなったら、受験生のイルカに近寄れない。
「…分かった。風呂、借りるよ」
 降参すると、マキは嬉しそうに頷いた。


 風呂場に入る前に、先にイルカに連絡を…と思って携帯を探したが、すぐに見当たらなかった。
「…あれ? どこだろ」
「携帯なら、私がお風呂入っている間に探しておくから。あ、脱いだ服は乾燥機に入れてね」
 どうせシャワーを浴びて少し温もるだけだし、それならば門限前には出てこれるだろう。
 携帯はマキに任せて、カカシは風呂場に向かった。
 濡れた服は脱ぎにくい。びっしょりと濡れた服を脱ぎ、脱衣所にあった乾燥機に入れて浴室に入った。 ノズルをひねり、シャワーを頭から浴びてひと心地つく。
 小さな浴槽は、半分ぐらい湯が溜まっていたので、入ることにした。 最初に入れた足が痺れるような感覚を味わい、大分と冷えていたのだと思った。 カカシは湯船に腰を下ろすと、シャワーを上から浴び続けた。


 マキはうろうろとカカシの携帯を探していた。どうにも見当たらないので、 自分の携帯でかけて着信音で知ろうとすると、かけるより先に、カカシの携帯の着信音が鳴った。 プルルル…という古風な音なので、すぐにカカシのものだと分かる。
「…ああ、ここか」
 カカシの携帯は、ケージの中にあった。
 チャッピーを取り出す時に置き去りにしたのかと、マキは携帯を手に取った。
 そして、誰からだろうと液晶を見て、固まった。

 着信 海野イルカ

「――…」
 プルルル…と呼び出し音が鳴り響く携帯を、暫し呆然と見つめたマキは、―― その電話をとった。




 イルカは、カカシが十一時を回っても連絡も無しで帰ってこないことに、焦りを募らせていた。
 本当に…どうしたのだろうか。
 気になって、今日は全然勉強が出来ていない。
 十一時半を回った辺りで、イルカはとうとう痺れを切らせて電話を掛けることにした。
「…別に、おかしくないよな…?」
 ちょっとドキドキとする。門限は十二時だが、多分許されるだろう。
 いや、許されなくてもいい。
 不安でたまらなかった。
 管理人としてではなく、一人の人間として、カカシに掛けるのだ。
 しかし、いざ掛けても中々電話に出ない。何十回も発信音を聞きながら、 カカシが出てくれるように祈った。
 そうして待っていると、遂に電話に出たようだった。
「…カカシさん?」
 イルカはホッとして、名を呼んだ。
 だが。

〈―― ごめんなさい…カカシは今、出れなくって代わりに私が出たの。遠藤マキよ。 覚えているかしら〉

「…!?」
 イルカはその声に、衝撃を受けた。
 覚えているも何も。
「…か…カカシさん、は…?」
 それでもなんとか問いを口にすると、電話の向こうで女がクスリと笑う声が聞こえた。
〈カカシは今、私の家でお風呂に入ってるの〉
「…――」
 イルカは言葉を失った。
 どうして、カカシが。そんな馬鹿な。
〈本当よ? …ほら〉
 シャワーの音が、聞こえてくる。
 クスクスと笑うマキの勝ち誇ったような声も。
〈これで分かった? 男のアンタなんて、所詮は遊びなのよ。 カカシが本気になんてなるわけないじゃない。だからいい加減、彼につきまとうのはやめて〉
「…!」
 わなわなと、携帯を持つ手が震える。
〈…もしもし? なんなら、カカシに代わりましょうか?〉

 イルカはそこで、電話を切った。



(07.10.20up)