第7話「久しぶりだね」
イルカは自身の汚れを拭い、風呂場を出た。
そして、これからどうしようと思った。
カカシは…部屋に戻っているのだろうか。
カカシの顔を見たくなかった。さっきの今で、どんな顔をしていいのか分からないからだ。
ひとつ屋根の下で暮らしていて、顔を合わさずにいれるわけがないのだが、
今は遠慮したかった。
それでも、自分が戻るのはあの部屋しかないのだ。
気まずいものを抱えつつも、重い足取りでそれでもイルカは自分の部屋へ戻った。
「……ん?」
部屋の戸をそっと開くと、中は電気が消えて暗かった。ビデオを見終えて眠ったのだろうか、
テレビ画面も消えている。
薄暗い室内、夜目に慣れないながらも見渡せば、どうやらコテツは眠っているようだった。
こっちの気持ちなんておかまいなしに、全く羨ましいことだと思った。
けれども、自分の横…カカシの眠るはずの場所には、人が寝転んでいるような布団の盛り上がりが無かった。
どうしたのだろうか。
思いながらも、そろりとイルカは自分の寝るべき場所に向かった。
やはり、隣りには誰も眠ってはいないようだ。カカシは居ないのだ。
コテツをちらりと見た。
(こいつが知るはずもないか…)
カカシのことが気にならないわけがない。あんな風に拒絶のようなことを告げてしまったことに対しても、
負い目を感じていた。彼は拒絶してはならないひとなのに。
…それでも流石に、受け入れられないこと、受け入れてはいけないものもあると思うから。
カカシには自分の部屋があるし、恐らくは自分の部屋に戻ったのだろう。
様子を見に行こうかと思いはしたが、カカシが部屋で眠ることが変なことではないし。
それに、やはりどんな顔をしていいのか分からないままでもある。
イルカは、ごろんと布団の上に寝そべった。
少し冷えた身体は、布団の中に包まれるとその暖かさに気が緩んで安堵する。
イルカは暗い中、天井を見上げた。
カカシのことが気になって、寝付けなかった。
彼の様子は、どうにもおかしかったような気がしてならない。
そりゃ、普段からキスしたりすることや、
抱き締めてくることもあったし、強引な所もあった。それでもあんな風に、
嫌だと言っても何処か切羽詰った様子で行為を強いるなんてことはしなかったはずだ。
思えば、昼間にカカシが大学から戻ってきた時にも、同じ様な雰囲気を感じた。
(…何か…あったというのだろうか)
そうひとり悶々を思考を巡らせたところで、答えなど出ようもなく。
ふあぁ、と欠伸が出た。いくら新聞配達が無いとはいえ、明日も朝は早いのだ。
色々としなければならないことはある。
「…寝よ…」
イルカは頭まで布団をかぶると、無理矢理眠りにつくように念じた。
だけど眠れない。
「…うー…っ、くそっ」
居もしない隣りを睨み、唸った。
そういえば。
この上掛け布団は、カカシが自室から取ってきたもので、これが無いと眠れないのではないだろうか。
イルカは暫しそのカカシの布団を見つめ、やがて起き上がった。
カカシの布団を手に、コテツを起こさぬように部屋をそっと出る。
そうして、二階のカカシの部屋へと向かった。
カカシの部屋の前に着くと、そこで立ち止まった。
もう眠っているのだろうか、それともまだ起きているのだろうか。
布団を届けに来たのだが、ここでまたイルカは理由を手にしながらも躊躇した。
他の部屋は静かなものだ。皆、眠っているのだろうか。
そんな風に周囲に気を配っていると、カカシが突然室内から出てきた。
「…うわっ」
まさか出てくるだなんて思ってもみなかったので、イルカはビックリしてカカシを凝視した。
一方カカシも、イルカが部屋の外に居て、驚いたような顔をしていた。
そのカカシの目が、イルカの顔から下、カカシの布団を持つ腕にいくと、途端に不機嫌な顔になった。
「…何? 自分の部屋で寝ろって?」
「…え…?」
冷めた顔、あからさまな不機嫌な声に、イルカは僅かに怯えた。
「ワザワザ布団持ってきちゃって。一緒に寝るのもイヤってこと?」
「…え、ち、違います、そんなんじゃ…」
カカシの態度に、そしてその言い様に、イルカは困惑した。
一体どういうことなのだろうか。
「か…カカシさんが、オレの部屋に居ないし、自分の部屋で寝るのかなって思って、
それで…」
そう説明すると、カカシは少しは表情を和らげはしたものの、それでも不機嫌なことには変わりなかった。
「オレはひとりで抜いてたの。誰がアンタとオレ以外を二人っきりになんかするもんか」
「……っ!」
イルカはひとりで抜いたという意味を理解すると、一瞬で真っ赤に染まった。
なんてことをあっさりと口にするのだろうか。
そんなイルカをよそに、カカシはイルカの腕から布団をひったくると、
さっさと階段を降りていった。
「…、あ」
イルカは数歩遅れて、カカシの後を追うように自分の部屋へと戻った。
「全く、もう」
眉根を寄せ、唇を尖らせながらも。
その足取りは、軽かった。
ひとつ屋根の下2 第7話「久しぶりだね」
翌日は日曜日。
平日よりは少し遅めの朝食を皆でとった後、コテツは自分の家に帰った。
「…あの、オレは二人を応援してますから。勿論、誰にも言いません」
コテツがそう、帰り際にカカシに耳打ちしたことは、イルカは知らない。
ただ昨日までとコテツの様子が少し違うものは感じてはいた。何か言いたそうな目で、
こちらを見たり。
しかし昨夜のことを見られていたなんて知らないので、あまり気には留めなかった。
それよりもカカシのことが気になっていた。
だが、カカシは普段と変わらない様子だった。
それでイルカは、すっかり安堵していた。
だから。
昨日のカカシの様子がおかしかったことについて、うっかり失念してしまっていた。
「…はぁ…」
目の前で重苦しい息を吐き出され、うどんの麺をすすっていた紅は、
ちゅるっと勢いよく麺を吸い上げた。そうするとうどんの汁が、
目の前に座るカカシの方に飛ぶ。
「…紅、汚い」
紅の前にいつものように座っていたカカシは、眉を顰めた。
「目の前でそんな陰気な顔されちゃ、飯が不味くなるのよ。他所いきな」
しっし、と紅は手で追いやる仕草をしてみせた。
カカシはムスッとした表情のまま、それでもどけようとはしない。
カカシが一番楽しみにしている、お昼ご飯のお弁当に箸を伸ばした。もくもくと、
握り飯を食む。いつもは美味しそうに食べるのに、お握りを食べる時でさえ浮かない顔だ。
紅はカカシに構うことなくうどんを全て平らげると、漸くカカシに目を向けた。
「…で?」
紅の短すぎる問いかけに、カカシは顔を上げた。
「イルカ君と、上手くいってないんでしょう。何があったの?」
「…なんで分かるの?」
カカシが不思議そうに問いかければ、紅はふふんと鼻で笑うようにして、
カカシを見下ろすような態度を取った。
「だって。アンタがそんな景気の悪い顔するのって、これまでもイルカ君絡みでしかないじゃない」
「…あ、そ」
そういえば、実際自分がこんな風に思い悩むのは、イルカ絡みしかなかった。
「……ヤりたいんだけど」
「…は?」
「だから。あのひととヤりたいんだけどヤれなくて欲求不満」
「………」
紅は無言でさらっとそんなことを言ってのけたカカシを凝視して。
アホらしいとばかりに顔を歪めた。
「へえ」
声にも侮蔑を込める。だが、カカシは何処吹く風というようにそれに対してのリアクションが無い。
「どーしたらいいかな」
「どうにもこうにも、我慢しな。っていうか、女にそんなこと聞くな」
「我慢してるよ。してるから溜まってんでしょ」
眉を寄せて不機嫌にカカシが言うが、紅は最早アホらしくてまともに取り合う気にはなれなかった。
紅は、カカシが自分を女と認識して(というか異性として)ないのは分かってはいた。そんなこと当然望んでもいない。
が、そんなこととは別に、流石に腹が立つのもあるわけで。
…否。
女だ異性だどうのこうのなんて、この男にはそういうことを構う神経がそもそも無いのだろう。
つまり、単純に無神経なのだ。
「恋人がやらしてくれない…ねぇ。アンタ嫌われたんじゃないの?」
そう言うと、カカシは思い切り傷ついた顔をした。
流石にしまったと思った紅は、あははと取り繕うように笑ってみせた。
「やーねぇ。ホントに嫌いになったなら、お握りするわけないでしょう。ね? 冗談よ冗談」
「…恋人なんかじゃないって…」
カカシは俯き加減にぼそっと呟いた。
「…え?」
「あのひととは…本当は恋人じゃない」
「………」
紅は、今度は唖然とする気持ちだった。
「恋人じゃ…ないの? もしかして元から?」
カカシは、こくんと頷いた。
「……そう。っていうか、だったら当然でしょうが」
「…だけど、やりたい」
「………」
紅は、ハァ、と思い切りため息を吐いた。
こんな調子でこの男は、あの祭りの夜もキスしたというのだろうか。
惚れられたイルカを不憫に思った。
「いーい? 好きだからって、何したって許されるもんなんかじゃないからね。
イルカ君のことが本当に好きなら、相手にも好きになってもらえるまで我慢。
それにイルカ君、今は受験で大変そうだからそれどころじゃないんじゃないの?」
同じことを言うものだと思いながら、カカシは頷いた。
「あと数ヶ月でしょう。待ちなさい」
言うと、紅は合掌をして席を立った。
「………」
カカシはそのままで、暫く考え込んでいると、ふと、目の前に影が下りた。
「…ねえ。ここ、いい?」
見れば、知っている女。同じ弓道部に入っているから知っているというだけで、
名前なども覚えてないが、数度何かの折に話したことはある。
少し小柄な体型で、茶色いストレートの髪が肩まで伸びて、
きっちりと化粧をした派手な顔立ちだった。おそらくは美人という部類だ。
「…どうぞ」
カカシはどうでもよさげに言うと、残っていた弁当を食べることを再開した。
「カカシくん、いつも弁当よね。自分で作ってるの?」
「…いいや」
「えっと、お母さん? …それとも彼女?」
「……」
いちいち食べている時に返答をするのが面倒だし、誰かに木の葉荘のことを言いたくはなかった。
元々自分が何処に暮らしているかとか教えたくない上に、ミズキやカジの件があったから余計にだ。
紅はいいが、こんな見も知らぬ女ならば口にしたくない。
「なーんちゃって。あはは、ごめんね。詮索するようなこと言って」
女は明るく笑みを浮かべながら、紙パックのジュースを飲んだ。どうやら食事をするわけではないらしい。
さっさと食べ終え、席を立つと女も同様に席を立った。
「これから講義入ってるの?」
「ああ」
「今日は部に出る?」
「…多分」
女は、カカシの隣りをキープしながら、何かと話しかけてきた。
うざったいと思いながらも、同じ部活仲間とあって、むげに出来ずにいた。
紅に、部内で揉め事を起こさないよう厳しくしつけられているのだ。
そうこうして、中庭で成り行き上会話を続けていると、女は一呼吸置いてから告げた。
「ねえ、私と付き合ってみない?」
「……オレ、アンタのことよく知らないし。好きでも無いし」
キッパリと告げれば、「あはは」なんて困ったように笑った。
「やだぁ、意外にカカシくんって固いんだ」
「……」
「彼女が居ないんならさ。別に私のこと好きじゃなくてもいいじゃん。軽い気持ちで試しに付き合ってみない?」
女は、努めて遊びを提案するような軽い雰囲気でそう言った。
「試し?」
何を言っているのかと思った。
が、女は笑いながら、頷いてみせた。
「そう、お試し。どっちかに他のヒトが出来たらそれでバイバイしちゃえばいいし。
それまでの遊びってことで」
「……」
「…かるーく考えてよ。ね、別に恋人居ないんならいいでしょ? 互いにサミシイ同士、
慰めあうカンケイってのも悪くないと思うけど。どう?」
イルカはHRを終えると、いつものように、カバンに教科書を詰めていると、コテツが傍に寄ってきた。
「帰ろうぜ」
コテツと一緒に並んで他愛も無いことを話しながら、やがては校舎を出た。
コテツの家は、木の葉荘とは方角が違う。だから、校門でいつも別れていた。
その、校門の手前。
ここで、コテツと「じゃあまた明日」なんて言いながら別れる所で、それでもコテツはイルカの隣りに並んで歩いていた。
「…おい? お前家はあっちだろ?」
「ああ。俺も木の葉荘行くんだよ」
「なんだって?」
露骨に顔を顰めたイルカに、コテツもむすっと不機嫌な顔になった。
「なんだよその顔。俺だってな、今日は好きで行くんじゃないぜ。ちょっと頼まれものしてな」
「誰に?」
「青葉さん」
「青葉さん? 一体何を?」
「それは内緒って約束なんだ。悪いな、聞かないでくれ」
「…なんだそれ」
怪訝な顔をするイルカは、知りたいがコテツの口の堅さを知っていたし、
内緒にしていることを聞き出すのも気が咎めた。
「…お前は知らない方がいいと思うし」
コテツは、イルカに聞こえないようにぼそっと呟いた。
そんな風に、二人並んで木の葉荘に向かった。木の葉高校と木の葉荘は近い。歩いて二十分程度だ。
一本道というわけではなく、途中に曲がったりもする。
その道中、イルカは不自然に足を止めた。
「…イルカ?」
コテツが不審に思って、イルカに声を掛けてもイルカは聞こえていない様子で。
ただ一点を、凝視していた。
前方を。
「…なんだ?」
一体何を見ているのかと、イルカの視線を追って見れば、そこには見慣れぬ男が一人立っていた。
そして、その男も同じように驚いた表情でイルカを凝視していた。
イルカは。
――カタカタ、と小刻みに身体を震わせながら、その人物から視線を外そうとはしなかった。
まるで恐ろしいものに出くわしたかのように。
「…い…イル…」
こんなイルカを見るのは初めてで、コテツは動揺した。
一方、男は戸惑いを含めた表情をそれでも気遣わしげに笑ませながら、口を開いた。
「―― 驚いた。…久しぶりだね、イルカ」
(06.11.10up)